第102話

そんなに長い時間、長い距離を歩くのはつらくなってきたというあいつに気を遣って、圭太はほど近くの小さい公園で話を聞こうと言い出した。


 ベンチとブランコくらいしかないショボい公園だったが、この時間は他に誰もいなくて、俺には不似合いな真剣な話をするにはもってこいだった。


「さて、と」


 分厚さこそあるものの、長年雨風に吹かれたせいで端々が朽ち、そこから錆びた釘が飛び出しているような古くさいベンチの真ん中にあいつはゆっくりと腰かける。そして、前に立ち尽くした俺と圭太に向かって「桐生君に聞かせるのは二回目になっちゃうけど」と前置きしてから、ゆっくりと話し始めた。


 それによると、あいつが自分の「病気」に気付いた最初のきっかけは、小学六年生の頃だったという。


 ピアノの調教師をしている母親の影響で、あいつは三歳からピアノを習い始めた。


 母親の血を受け継いだ上に、もともとそういう才能を持って生まれてきたのだろう。あいつのピアノの腕はみるみるうちに上達していき、五歳になる頃には大人顔負けの腕前だと皆が褒めちぎり、いろんなコンクールで賞を総なめしてきたそうだ。


 たまにテレビや雑誌なんかで紹介されて、天才ピアノ少女なんてありきたりなネーミング付きで注目された。将来は日本のクラシック界を背負って立ち、世界でも通用するピアニストになれるだろうと。


 あいつも、その事には何の疑いも持っていなかった。これからもずっと努力を惜しまずに精進していけば、その夢を叶えられると。


 そして欲張りにも、ミュージカルに挑戦してみたいと思ったそうだ。歌ってピアノも弾ける音楽家として活動してみたいと。小学校に上がるとすぐに声楽の勉強も始めたあいつは、学校生活と音楽活動に忙しくなっていった。


「…言っておくけど、普通の生活をしてみたかったって嘆いた事はないからね。学校にいる間は普通に友達と遊んでいたし、先生だって私を特別扱いはしなかった。本当に、私は恵まれていたわ」


 あいつがそう言った時、俺とはメチャクチャ真逆だなと素直にそう思ってしまった。俺はあいつと違って、とことん特別扱いされ、窮屈な小学校生活だったから。


 そんな、誰もが認めて、誰からも温かく見守られ続けてきたはずのあいつの音楽活動は、小学六年の春、突然ブレーキがかかる事になった。


「本当に些細な事だったのよ。何て事ない、たったあれだけの事がきっかけだなんて誰も思わないじゃない…」


 その時の事を話しだしたあいつの声は、悔しそうに震えていた。

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