第101話

一瞬、ものすごく息が詰まった。それなのに、心臓はやたらバクバクと速く動き出して、俺の耳の中であいつの言葉が響くように繰り返されていく。


 俺だって、ずっと田室先生の所に通っているんだ。専門の病院ってのが、患者にとってどんだけ重要で信用に足る場であるかなんて、嫌でも身に染みている。しかも引っ越しまでしなくちゃいけないくらいなら…。


「…どういう事だよ、圭太」


 俺は、あいつが持っているミニショールから目を離せないまま、横にいる圭太に問いかけた。圭太はすぐには答えず、俺の方をじっと見ているようだった。


 何だよ、今度は俺だけが知らないのか。俺だけ仲間はずれっていうのか…。


「おい答えろよ、けい…」

「別に俊一君だけが知らない訳じゃないよ」


 俺の言葉を遮って、代わりにあいつが答えた。俺はつい反射的にあいつの顔に視線を向けてしまったが、そこにいるのはいつもと変わらず、例のごとくのっぺらぼうだ。これから大事な話をしてくれようとしているあいつの顔がどんなものなのか、知る事なんてできなかった。


「学校には親の仕事の都合だって言ってあるの。クラスメイトや友達には本当の事は話してない」

「…何で」

「ものすごく月並みになるんだけど、心配させたくなかった、から?笑顔でお別れしたかったっていうのが一番かなぁ」

「…でも、圭太は知ってるんだよな?」


 今度こそ、俺は圭太を振り返って問いかけてみた。圭太はまだ俺の方を見ていたようで、俺達の視線がきっちりと合わさったような気がした。


「うん」


 圭太の首が、こくりと動いた。


「前々から先輩の様子おかしいなって思ってたし、この時期に引っ越しなんてよけいに変に思えたから、無理に問い詰めたんだ」

「誰にも何も言わずに引っ越すつもりだったんだけど、桐生君の粘り勝ちって奴。おまけに、今日連れてくるから俊一君にも話してあげてほしいなんて言うんだもん。もう降参よ」


 様子がおかしいって、あの足を引きずるようにして進む歩き方の事言ってんのか?それとも、あの夏休みのコンクールの時の事か?


 何が何だか全く分からない。とつぜん発生した混乱の渦の中にポォンと放り込まれて、俺はこれ以上ないほど間抜けにもがいている。


 そんな俺のすぐ目の前で、あいつがやれやれといった感じに肩をすくめている。かすかに笑い声も聞こえてきた。


「ちょっと待ってて。…お母さ~ん、後輩の子と最後にその辺ぐるっと回ってくる。うん、大丈夫だから」


 一度玄関の中へと入っていったあいつが次に俺達の元に戻ってきた時、その右手には白い杖が携えられていた。

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