第92話

「…直哉さんに頼まれたんだろ?」


 夕方のオレンジ色があたりいっぱいに広がり始めた頃になって、ようやく練習が終わった。


 はた目から見ても相当にきついメニューをこなしていたのっぺらぼう達は、ワゴン車に乗り込んだ途端、一斉にいびきをかき始めた。誰も聞いていない事を確認してから、俺は田室先生にそう切り出した。


「何の事かな?」


 案の定、田室先生はとぼけきった声を出した。この時の田室先生の顔がどんな表情をしているのか分かる事ができれば、俺はもっと健全に中学生らしいムカつき方ができるというのに。


「顔が見えなくたって、それくらい分かるっての」


 俺は両腕を組みながら、ワゴン車の窓の外を見た。ちょうど赤信号に差しかかっていたので、外を行き来している人や車がよく見えた。


 こんな時間だ。俺達と同じように、それぞれの出先から家路に着こうとしているのが大半だろう。あいつら一人一人が本来はのっぺらぼうなんかじゃなくて、ちゃんとした顔がある生きた人間なんだ。生活があって、人生があって、夢とか希望なんかもあったりして…。


「分かった、観念するよ。彼から、俊一君の事を尋ねられたのは確かだよ」


 別に拗ねていた訳ではなかったのだが、窓の外に顔を向けていた俺の仕草からそう勘違いしてしまったのだろう。肩越しに、田室先生の息をつく音が聞こえた。


「でも、憂鬱を発散してもらいたいって思ったのも事実だよ。中学生活なんてあっという間だ。すぐに高校受験、大学受験といって、気が付けば就活やってたなんて事になるくらい、人生は早い」

「……」

「特に夏休みなんて、学生の特権だぞ?大人になったらそんなもんはないに等しいからな。もったいない使い方してほしくなかっただけさ」

「……」

「…で?今日一日マネージャーやってみてどうだった?」

「やってよかったが半分、二度とやりたくないが半分かな」


 俺がそう答えると、田室先生は大げさなくらいに吹き出して、それから我慢しきれないと言わんばかりに笑い飛ばした。


 だって、本当にそうなんだから仕方がない。


 田室先生のおかげで確かに嫌な感じの憂鬱さは減ったが、その分頭を捻るような事が増えてしまったし、何よりかいた汗の量がハンパない。


 やっぱり夏休みはどこにも出かけず、冷房の効いた部屋で一日過ごすのが無難だ。帰ったら、冷たいオレンジジュースでも飲もう。まだ冷蔵庫に買い置きの奴が残っていたはずだ。


「じゃあ、次も頼んだら引き受けてくれるかな?」


 ようやく笑いが治まった田室先生がそう聞いてきた。俺はすぐに「その時の気分次第で」と答えた。


 でも、二学期が始まって最初にあいつに会ったら、まずは謝ろう。それだけはどんな気分であってもそうするべきだと思った。

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