第91話

「ちょっと事情があってさ。純の奴、ある時期からずいぶんひどく塞ぎ込んでたんだよ。見ててこっちがつらくなるくらい。だから時々、俺の練習や試合に連れ出して、気分転換させてた…つもりだ」


 直哉さんの切り出したその言葉に、俺は心の中で「はぁ~?」と返事をした。


 俺は覚えている限り、会ったばかりの頃のあいつを思い出した。


 俺が圭太に無理矢理自転車の二人乗りを強要していると勘違いして、偉そうに説教かましてくれたあいつ。


 それが誤解だと分かったら、すぐさま謝りに来たあいつ。


 ダラダラといつまでも不安がって、心配して、俺の教室まで様子を見に来たあいつ。


 そんでもって、「私の顔を覚えて」とずいっと近付いてきたあいつ…。


 …どこが塞ぎ込んでいたって!?圭太からすればすごく他人思いで優しい奴らしいし、俺から見たってあいつは…!


「じゃあ、今は絶好調ってところですか?あいつ、歌のコンクールも優勝してたし」


 塞ぎ込んでいたっていうあいつの様子を想像する事もできなくて、俺はちょっと嫌味っぽく返事をする。でも、直哉さんにはそれは通じなかったらしく、彼はごく普通にこう言ってきた。


「君のおかげだって、純は言ってたよ」

「はぁ~?」


 今度は、何のためらいもなくそう返事をする事ができた。


 あいつ、いったいどういうつもりでそんな事言ったんだ?つーか、俺がいったいどうやってあいつの為になるような事をしたってんだよ?


 全く訳が分からない。どう考えたって、そんな言動を起こした記憶がない。


 圭太か誰かと勘違いしてるに違いない。絶対にそうだ。直哉さんに頼んで、その誤解を解いてもらおう。


 そう思って俺が言葉を吐き出そうとしたら、また直哉さんに阻まれた。俺は口を中途半端に開きっぱなしにしたままで、彼の言葉を聞く羽目になった。


「君は覚えてないと思うけど、純ははっきり覚えてたよ。初めて会った時の君の一言が、踏ん切りをつけるきっかけになったって。いつまでも落ち込んでないで、今できる事を最大限に取り組む事にしたって」


 …初めて会った時?やっぱり、あの自転車の二人乗りの時か?あの時のどこにそんな効果のある言葉があった?


「そんな気持ちの切り替え一つで、あんなに暗く沈んでいた純が大声を張り上げるまでになれたんだ。俺も垣谷君に感謝してる。ありがとうな」


 頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになり出した時、直哉さんはそう言ってまた頭を下げてきた。


 話せる範囲でしか話せないと言っている以上、詳しく問いただすのは無理な話だろう。そう踏んだ俺は、もう何も聞き出す事もなく、直哉さんに「はい」とだけ返事をした。






 次に直哉さんと会ったのは、あいつの告別式の日の事になる。


 直哉さんは人目もはばからず大泣きしていた。何度も何度もあいつの名前を呼んでいた。


 俺には従兄弟がいなかったからよく分からなかったけど、こんなに愛してもらえてよかったなって、あいつの事が少しうらやましかった。

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