第88話

田室先生に促されるまま、のっぺらぼう達の荷物を運ぶ。それで体育館の入り口とワゴン車の間を何往復かした次は、やかんを持って体育館脇の水飲み場まで走った。


 ずいぶんと使い込まれているやかんの中をていねいに洗ってから、蛇口を捻ってたっぷりの水を入れる。それからスポーツドリンクのパウダーと氷をぶち込むと相当な重さになり、マジで両腕の関節が抜けるんじゃないかと思った。


 よたよたとした足取りでようやく体育館まで戻ると、中はもうとんでもない熱気に包まれていた。


 端から端までダッシュ練をしている奴らも、真ん中でダンベルなんかを持って筋トレをしている奴らも、これから始めるぞと言わんばかりに準備体操をしている奴らも、やっぱりのっぺらぼうだ。何チームか合同で練習するとは分かっていたものの、どうしてもそう見える以上は不気味としか捉えられない。


 メチャクチャ重いやかんをぶら下げながら突っ立っているそんな俺に気付いたのか、どこかから田室先生の声が聞こえてきた。


「おーい、こっちだこっち!」


 声のした方を見てみれば、体育館の奥まった右端の方で俺に向かって大げさなほどに野太い両腕を振っているのっぺらぼうがいた。例のバッジが見えなくても、その両腕だけで田室先生だと分かった。


「あ、はいっ…!」


 のっぺらぼう達の練習の邪魔にならないよう、ゆっくりとその間を縫うようにして進んでいく。そうして、ようやく田室先生のすぐ目の前まで辿り着けば、彼の「ありがとな、俊一君」と明るい声で言ってくれた。


「重かっただろ?でもあいつら、すぐにガバガバ飲んじまうから、一瞬でなくなるぞ?」

「えっ!?じゃあ、何時間かおきにまた作り直すんですか?」

「何時間どころか、下手すりゃ二十分もたない時もあるよ」


 そう言って、田室先生は肩をすくめる。コーチなんだからさほど運動はしていないはずなのに、田室先生のTシャツはこの熱気でもう汗だくだ。俺もたかがやかんを運んだだけだってのに、首のあたりが汗でびしょびしょだった。


「…じゃあ、今のうちにもう一回作りに行った方がいいですよね。予備のやかんはありますか?」


 まだ気力があるうちに新しいスポーツドリンクを作っておこうと思って、俺がそう言った時だった。ふいに背後から、誰かの大きな手ががしりと俺の肩を掴んできた。


「ああ、やっぱりそうだ。君、あの時の子じゃん」


 全く知らない男の声に、全く知らない大きな手。体育館の中は熱気でむんむんしていたというのに、俺は背中にぞくりと寒気を感じて、思わず振り向きざまにその手をなぎ払った。

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