第79話

体育館の中はとても広々としていて、中二階に設けられていた応援席までのっぺらぼうでいっぱいだった。


 まだ開始時間まで少し間があったので、玄関先で手渡されたパンフレットに目を通す。独唱の部は午前九時半からとなっていて、あいつの名前は三番手に書かれてある。


 これならあいつの言っていた通り、出番は十時くらいになるだろう。それが終わったら、とっとと帰るか。俺が頑張る訳でもないのだから、結果なんて別にどうでもいい。


 そんな事を思いながらパンフレットを眺めていたら、隣のパイプ椅子に座っていた圭太がひょこっと首を突き伸ばして俺の持っているパンフレットを覗き込んできた。


「あ、瀧本先輩の出番は三番目なんだね。これなら長く待たずにすみそう」

「何だよ、圭太。お前知らなかったのか?」

「うん、まあ」

「何だそりゃ。あいつ、わざわざ俺の教室にまで来て、自分で時間言ってきたんだぞ?」


 俺はまるで知らない様子の圭太を通して、あいつの間抜けぶりにいらだちを感じた。


 だが、俺と圭太の教室は隣同士だぞ。俺の所に来たんなら、どうしてそのまま圭太にも知らせてやらないんだよというところまで考えた時、ふいに足を引きずるようにして歩くあいつの後ろ姿を思い出した。


 それと同時に、だいぶ離れた所に位置している体育館の壇上に目を向けた。


 まるで大きな劇場かホールを思わせる分厚いカーテンと重そうな緞帳どんちょうが開かれたその先に、床がピカピカに磨かれた壇上が見える。壇上の袖から袖までの距離はずいぶんと長く見えて、その一方に黒光りする大きなピアノが鎮座していた。


 あいつは、あのピアノの横から出てくるのだろうか。もしそうなら、壇上の袖とピアノの間は何だかずいぶんと狭そうだ。あいつ、歩きにくかったりしないだろうか…?


「なあ、圭太」


 ちょっとだけ、本当にほんのちょっとだけその事が心配になって、俺は圭太に話をしようとする。だが、ちょうどその時、体育館中に女の声でアナウンスが流れ始めた。


『ただいまより、当コンクール独唱の部を始めさせていただきます。お客様は携帯電話の電源をお切りになるかマナーモードへの設定をお願い致します。また、出場者の歌唱中はお静かにしていただくと共に、席をお立ちになったり会場の出入りをされませんよう、ご協力をお願い致します…』


「いよいよだね、垣谷君」


 とても小さい声で、圭太が耳打ちしてきた。


「声は出せないから、心の中で瀧本先輩を応援しよう」

「あ、ああ…」


 こくりと頷いてから、俺は最初の出場者がゆっくりとした足取りで出てきた壇上に顔を向けた。

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