第58話

「何それ、知らないんだけど」


 あいつが言った。


「お兄ちゃん達が負ける訳ないでしょ。去年の大会だって優勝したのよ」

「そんな事、俺だって知らねえよ」


 だけど、と俺は思った。


 初めて会った時からずっと見てきた田室先生の野太い腕は、俺にとって両親と圭太以外で頼りになる心強いものだった。「大丈夫だよ」と言われながら大きな手のひらで撫でられると、本当に心から安堵できた。


 そんな田室先生が育て守っているのっぺらぼうどもが弱い訳がない。かつての学生チャンピオンが指導してんだからな。


「祝賀会より残念会でもやった方がいいんじゃねえの?」


 Aブロックのコートに目を向けたまま、俺は肩をすくめてそう言ってやる。すぐに本当の事になるんだし、そうなればあいつとのこの無意味なおしゃべりも終わりだ。


 さっさと切り上げて早く一人になろうと、俺が再び足を動かそうとした時だった。


 ガアァン!!


 突然、俺の耳どころかロフト周辺にまで響き渡る鈍い音。きっと俺だけじゃなくて、周りで観戦していた他ののっぺらぼうどもも振り返ったに違いない。


 何の音だと思ってみれば、そこには自分の右手のこぶしをロフトの縁にある金属製の柵に叩き付けているあいつの姿があった。


「いい加減にしてよ、まだ分からないのに…」


 こっちに顔を向けているあいつの声が、怒りに満ちていた。


 分からないって何がだ。試合の結果の事か?そんなの、田室先生のチームが勝つに決まってるのに。


 あの言い回しじゃ分かんなかったのかと、俺はもう一度同じセリフを言おうとしたが、あいつの怒りに満ちた声は留まろうとはしなかった。


「最初からどうしようもなくて仕方ない事ならまだしも、努力を重ねて挑もうとしている側からそういう事を言うのって、失礼以外の何物でもない!」

「は?何言ってんだよ?本当の事になるんだから仕方ない事なんだろ?だからそう言って、何が悪いってんだよ」

「どうして俊一君って、そう意地が悪いの!?」

「事実を言ってるだけだ。あと、なれなれしく名前呼ぶな。気持ち悪い」

「何よそれ!どんな時でも、それなりの言い方ってものが…」


 そんなつもりは毛頭なかったっていうのに、いつの間にか俺もあいつもだんだん興奮していき、最後は怒鳴り合いになってしまっていた。


 ロフトの上から体育館中に響き渡ったもんだから、それを聞き付けた田室先生とあいつの従兄弟が慌てて止めに来てくれるまで、ずっとそんな調子であいつとの初めてのケンカをした。


 この時の俺は、あいつのその時の言葉を軽く受け止めていた。


 どうしようもなくて仕方ない事もある。努力を重ねて挑もうとしている人がいる。


 この言葉の意味をもっと早く分かっていれば、あいつともっと早く打ち解けられていたのだろうか。今、そんな事を思っても仕方ない事なんだけど。

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