第55話



「次の日曜に、俺の教え子達の試合があるんだ。俊一君、よかったら見に来ないか?」


 今月の定期検診が終わってすぐの事だった。診察室で向かい合っていた田室先生が突然そんな事を言うので、俺はつい「何で?」と答えてしまった。


 田室先生がこんな事を言ってくるのは初めてだった。


 彼の口から聞かされていたのは「アームレスリングをやっている」「今は後輩達の指導をしている」ぐらいで、実際に競技や指導をしているところなんか見た事ない。もっと言うならば、スポーツ自体に興味がなかった。


「『何で?』ときたかぁ…」


 田室先生は参ったなぁとばかりの口調でそう言いながら、がしがしと頭を掻く。本当にそういう俺の返答を予想していなかったのかどうかは分からない。だが、これだけは分かっていたはずだ。


「俺、そういうの見たって応援とかできないよ?拍手とか気の利いた事もできないだろうし、逆に先生の後輩に失礼じゃね?」


 こんな俺でも、世の中にはあらゆるジャンルで競い合うものがたくさんあって、それに身を投じて頑張ってる奴らはもっとたくさんいるって事くらいは分かる。


 だが、そんな奴らに対して共感する事がなかなかできない。そいつらの頑張りを最も顕著に現しているのが、俺には見る事のできない顔――つまり表情だからだ。


 どんなに真剣な表情で挑んでいると知っても、俺からすればただののっぺらぼうだ。のっぺらぼうどもが一つの場所にうじゃうじゃ集まって、何やらごちゃごちゃやっているふうにしか見えない。


 だから共感とか称賛するどころか、船酔いしたみたいに気持ちが悪くなるだけだ。勘弁してほしい。


「確かに、俊一君にはきついかもしれないけど」


 田室先生が言った。


「あくまで地区予選だから、それほどたくさんの人は来ないし、会場の体育館にはロフトもある。離れた所から落ち着いて見られるよ」

「だから、俺は…」

「小説やパズルゲームもいいけど、たまには人間観察もしてみないか?まあ、予定があるなら別だけど」


 何が人間観察だ。俺の周りはのっぺらぼうだらけなのに。


 だが、田室先生の言う通り、次の日曜に予定がないのは事実だ。『満腹軒』は休みだから、圭太はおじさんやおばさんとどこかに出かけるって言っていたし、部屋にこもって小説を読むかパズルゲームをするかで悩んでいた。


「…ちぇっ、分かったよ」


 俺が返事をすると、田室先生のクククッと笑う声が聞こえてきた。年取って、ちょっと意地悪くなったなと思った。

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