第54話

あいつは、圭太が教室に戻ってくるまで、ずっと俺に顔を近付けたまま離れようとしなかった。俺がどんなにそっぽを向いてもあいつの顔は追いかけてくるし、「やめろよ」とか言ってもまるで無視。


「ダメ。ちゃ~んと私の顔覚えて」


 そして、二言目にはこのセリフだ。何度言われても無理なものは無理で、圭太が戻ってきてくれた時はどんなに安堵した事か。俺は圭太があいつに気が付いて何か言う前に「じゃあな」と短く告げて、足早に教室を出ていった。


「どうなんだよって言われてもなぁ…」


 圭太が困ったような声を出しながら、右の頬をポリポリと掻く。


 それもそうか。同じクラスメイトならまだしも、あいつは今年三年生で生徒会長だ。月に何回か集まって話し合うだけの関係性じゃ、大して何も分かるはずがない。


 つまらない事を聞いてしまったなと思い、俺は軽い詫びの言葉を口にしようとした。そして、そのまま今日の宿題を一緒にやろうという流れに持っていきたかったのに、ふいに圭太が「ああ、そうだ」と何か思い出したかのように切り出してきた。


「すごく他人思いで優しいって印象が強いかな」


 圭太のその言葉で、今朝の事を思い出す。確かに今思い返してみれば、あいつが最初に言ったのは誤解だったとはいえ、圭太を心配する言葉だった。


『桐生君、何で君みたいな真面目な子が二人乗りなんかしてるの?まさか、無理矢理やらされてるとかじゃないわよね?』


 普通、ああいう場でそんな発想に至るか?大抵の奴は、普通に二人乗りしてるって思うもんだろ?


 そう考えたら、急にあの時腹を立てた事がちょっと恥ずかしくなってきた。そういえば、あいつは誤解した事をきちんと謝ってきたのに、俺は「別に」とか言ってろくに謝ってないような…。


「…あとね。この間の議会の時、急に具合が悪くなった人がいたんだけど、それに一番早く気がついたのが瀧本先輩でさ。その人の背中をさすってあげたり、一緒に保健室に行ってあげたりして気配りもすごくて…。ちょっと、垣谷君?」


 垣谷君が聞いてきたんだろって、今度は少しいらだったような圭太の声が聞こえた。


 それにハッと気がついて、俺が「悪い悪い」と謝れば、圭太はさらにこう続けた。


「僕は、とてもいい人だと思ってるよ。垣谷君もそう思えるんじゃないかな」


 俺は、圭太やおじさんとおばさん、それから両親と田室先生以外にそんないいのっぺらぼうがいるもんかと思っていた。出会えるはずもないと思っていた。


 まさか、もうすでに出会っていたなんて思いもしなかったし、この時点で圭太があいつに恋心を抱いていたなんて知る由もなかった。

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