第48話

皆が教室の中に入ってしまって、誰一人の姿も見えない廊下をゆっくりと進んだ。


 確か、今日の一時間目は数学だった。数字の類は小学校の時から苦手だった上に、数学担当ののっぺらぼうは教え方が毎度遠回しで、おまけに口調もねちっこいので生理的にダメな部類だ。


 授業の途中から教室に入るのも億劫だったし、どうせなら一時間目が終わるまで図書室にでもいようかと思った時だった。


「あっ、いた!ねえ君!」


 背中の向こうから聞こえてきた、心地よい涼やかな声。反射的にぱっと振り返ってみれば、あの女ののっぺらぼうがいた。


「先に指導室を出ていったって聞いたから、追いかけてきたんだけど」


 女ののっぺらぼうは、入学式の時に見たあの引きずり出してくるような遅い歩き方で廊下を進んできて、俺に近付こうとしていた。つい一、二歩後ずさってしまったが、後ろ向きだったせいか少し足がもつれて、廊下の窓際にとんと背中をぶつけてしまった。


「何だよ…」


 俺の目の前まで辿り着いた女ののっぺらぼうが、俺をじいっと見上げてくる。顔は分からなくても、俺の頭一つ分低い位置からでも注がれてくる視線は痛いほど伝わってきた。


 こいつがどうしてこんなに俺を見てくるのか分からなくて、俺はまた悪態をつく羽目になった。


「何だよ、まだ何か文句あるのかよ。反省文は書いたんだから、もういいだろ」

「うん。その事もちゃんと聞いてる」

「じゃあ、いったい」

「ごめんね」


 また少し苛立ちを覚え始めた俺の言葉を遮って、女ののっぺらぼうがいきなり謝った。おまけに、ぺこりとその小さな頭まで下げて。


 突然の事に、俺は正直テンパった。何が何だか、さっぱり分からない。何でこいつが謝ってんだ?


「何のつもりだよ」


 訳が分からなくてとにかく聞いてみたら、女ののっぺらぼうは頭を下げたままで「君の事、誤解してたから」と答えた。


「あの真面目な桐生君が二人乗りをしているのが信じられなくて。だから、君が桐生君に無理矢理やらせてるんだって勝手に思いこんだの」

「圭太を知ってんのか?」

「桐生君はクラス委員長なの。だから時々顔を合わせる事があって」

「……」

「桐生君から、君は友達だって聞いた。校則違反はともかくとして、誤解した事だけはちゃんと謝りたかったの」


 そう言ってから、女ののっぺらぼうはもう一度「ごめんね」と言った。


 何だか、急に生徒指導室にいた時よりも居心地が悪くなった。圭太の知り合いだったんなら、これ以上謝らせるのは悪いような気さえしてきて。


「別にもういいから。じゃあ」


 それだけ答えて、俺は背中を向けた。そのまま廊下を進もうとしたら、背中の向こうでまたあの涼やかな声が聞こえた。


「私は、瀧本純。君は?」


 答える必要なんかなかったはずなのに。たぶん、もうこれっきりで、今後関わるような事なんかないと思っていたのに。


「垣谷俊一…」


 気が付けば、ぽつりとつぶやくように名乗ってしまっていた。

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