第38話
「…あの時ほど、人様に感謝した事はないんだから。多分これから先も、きっとないよ」
出会って少し経った頃、その時の事を話し始めたあいつは最後にそう締めくくった後で、これでもかとばかりに勢いよく笑いだした。
いったい、今の話のどこがそんなにおかしいのかと俺は首をかしげた。
何の遠慮もなく「ヘタクソ」と言ってのけた当の本人がこう思うのもおかしな話になるんだろうが、俺があいつの立場だったらあんなに笑えない。
自分より二つ年下で、しかも何の事情も知らないクソガキにそんな生意気な事を言われたら、冷静でいられる自信など全くなくなる。下手すればキレて暴れるかもしれない。
「何で笑ってんだよ」
俺がそう言うまで、あいつはずっと笑っていた。自分の笑い声で俺の問いに気が付くのが遅くなり、少しの間を開けたところであいつはやっと答えてくれた。
「だって、やっと未練がましい自分から卒業できたんだし」
「卒業?何言ってんだよ。お前、あの時はまだ…」
途中まで言いかけていた俺の言葉を、あいつの視線が止めた。
いや、実際にはあいつの視線っぽい感じにだ。俺の頭の中の不具合は、相手の目の動きを正確に追えない。だから、目の前にいる奴が本当に俺の方を見つめているかどうかなんて、勘と雰囲気に頼るしかない。
でもこの時、何故か確信が持てた。あいつが俺から一切目を離さずに、しっかりと見つめてきてくれてる事を。だから俺も、あの時はあいつときちんと向かい合う事ができていたんだと思う。
「本当にありがと、俊一君」
あいつが言った。
「おかげで、こうやって歌に集中する事ができる」
「…いや、別にそれは俺の…」
「あ・り・が・と!」
まるで礼を言う事に意地を張っているかのように、あいつが一音ずつ言葉を区切って言ってくる。正直、その事を覚えていなかった俺は内心大きなため息をつきながらも、いつの間にか差し出されていたあいつの手を反射的に握った。
保育園に上がる前からピアノをやっていたというあいつの手は、ものすごく細くて華奢だった。それなのに、ぐっと俺の手を強く握り返してきて、ピアノとの別れを惜しんでいた。
ピアノができなければ、せめて声で――。
きっと、あいつはそう思ったからこそ、歌にシフトチェンジしたんだと思う。
何よりも、音楽が好きだったから――。
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