第35話

それから約三時間後に、授業参観が始まった。


 三時間目のチャイムが鳴ったと同時に、廊下に集まってきていた大きなのっぺらぼうどもがパタパタとスリッパの音を立てながら一斉に教室の中に入ってくる。


 何日か前の、体育の授業の時。ふと足元に視線を落としたら、蛾の死体を運んでいるアリの集団が目に留まった。冬を越す為に必死に働いている事は図鑑で見て知っていたけど、やっぱり気持ち悪いと思った。その時と同じ気持ち悪さが蘇ってきて、さっそくギブアップしたくなった。


「うっ…」

「…あ。だ、大丈夫?垣谷君…」


 口元に手を当てて机の方に視線を落とした俺に気付いて、圭太がぽそりと話しかけてきた。


 おばさんが選んだのだろうか、この日の圭太はちょっとおしゃれだった。いつもは着てくる事のない襟付きのカットシャツに紺色の小さなネクタイを巻き、真新しい青のジーンズが妙に似合っている。なのに、俺の為にと巻いてくれている黄色い防犯ワッペンが台無しにしていた。


「ごめん、大丈夫だよ圭太…」


 俺は首を横に小さく振りながら答えた。まだ授業は始まってもいない。ここでいきなり保健室に行ったら、のっぺらぼうどもに負けるような気がして嫌だった。


 口元の添えた手のひら越しに、何度も大きく深呼吸をした。大丈夫、俺は大丈夫。いつも通り我慢してればいいんだ。教科書とにらめっこして、奴らの視線を受け流そう。たった四十五分間の我慢だ。


 心の中で何度もそうやって自分に言い聞かせながら、机の上に置いてあった国語の教科書に手を伸ばす。プルプルと震えているのを、子供心に情けないと思いながら――そしたら。


「はいはいはいはい、ちょ~っとごめんなさいね!ああ、いたいた!圭太、俊一君~!」


 ニブチンが授業を始めようと教壇に立ったのと、そんな豪快な声が背後から聞こえてきたのはほぼ同時で。教室にいた全てののっぺらぼうの視線がそっちに向いたと思う。


 俺もそれまでの気持ち悪さを一瞬で忘れて、ほぼ反射的に後ろを振り返る。すると、そこにはもうすっかり見慣れてしまった油まみれの白い割烹着を着たのっぺらぼう――おばさんがいた。


「ギリギリセーフだねぇ。あ、そこの真ん中にいさせてもらいますよ。はいはい、もうちょっと詰めてくれませんかね?」


 おばさんは、何の遠慮もなく他ののっぺらぼうどもを押し退けて、俺や圭太を一番見守りやすい立ち位置を確保していく。それなりに小洒落た格好をした奴らとは全く真逆のおばさんに、俺は少し混乱していた。


「何で…?だっておばさん、おしゃれな服買いたいって…」


 あまり大きな声で言ったつもりはなかったが、後ろの席の圭太にはしっかり聞こえていたらしく「仕方ないよ」とため息混じりの声がやってきた。


「僕のこの服で、父ちゃんのへそくり全部使っちゃったんだもん。それに、あれなら俊一君に一発で分かってもらえるって思ったんじゃないかな。ほら」


 圭太が右腕を上げて、母親を指差す。その通りに目を向けていけば、おばさんは割烹着だけじゃなく、全身に黄色い防犯ワッペンを何枚も貼り付けてくれていた。


「俊一君、頑張って!」


 おばさんが、俺に向かって手を振っている。そんなおばさんの格好を見て、周囲ののっぺらぼうどもが何やらひそひそ話している。


 悔しかったけど、それ以上にとんでもなくありがたくて。でも、やっぱり申し訳なくて。なのに、ものすごく嬉しくて…!


「…わああああああっ!うわあああああんっ!」


 気が付いたら、俺は大声で泣いてしまっていた。


 今思い出しても、結構恥ずかしい記憶だ。でも、圭太やおばさん達のおかげでその後の小学校生活を俺は無事に過ごす事ができた。

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