第30話
俺の家より真逆の方角に二十分ほど歩いた頃だっただろうか。ある住宅街の一角に、ぽつんと小さく佇んでいる一軒の店が見えてきた。
まだ夕方と呼ぶには中途半端な時間の為だろう。店の入り口には『只今準備中』という札がかかっていて、訪問者を拒むようにぴしゃりとその戸を閉じている。ちらりと見上げてみれば、戸口の上には『中華料理 満腹軒』と安易なネーミングの看板もかかっていた。
「ここよ」
母さんの緊張した声が、頭の上から降ってくる。それと同時に、俺の右手を握る力が少しだけ強くなった。
「大丈夫だからね、俊一。お母さん、ずっと一緒にいるから」
「…うん」
頷きはしたものの、もし圭太の親が母さんを責め始めようものなら、俺は必死で母さんを守るつもりだった。何十回でも何百回でも謝るから、母さんを怒るのだけはやめてほしいと言うつもりだった。
二回ほど深呼吸をした後で、母さんは店の戸口に手をかけた。準備中の札がかかっているのだから鍵の一つもかかっていると思っていたのだが、戸口は何の抵抗もなく、カラカラと小気味いい音を立てながら開いていく。
それに気を緩めた訳でもなかったのだろうが、母さんが「あのう、ごめん下さい…」と店の中に向かって、やや拍子抜けしたような声色で声をかけた時だった。
「…あんたぁ!また競馬でスッてきたね~~!」
店の奥から突然ものすごい女の怒鳴り声と、何かを投げ付けていくようなガシャガシャンといった物音が連続で聞こえてきて、俺と母さんは戸口の所で固まってしまった。
店の内装はカウンター席のみとなっていて、全部で八つ。そのカウンターを挟んで見えるのは、少し小ぢんまりとした厨房。二人ほどが作業するので精一杯の狭さだ。
そんな狭い厨房の隅に勝手口と思われる小さなドアがあった。そのドアが半開きになっていて、そこから怒鳴り声や物音が筒抜けだった。
「違う、話を聞けよ!今日はパチンコだって!しかも二万しか負けてねえし!」
「開き直ってんじゃないよ!いつ私が、あんたにそこまでのお小遣いをあげたんだよ!?今日という今日はもう勘弁しないからね!」
聞こえてくる怒鳴り声は二つで、男と女のものだった。勘弁しないという言葉に恐れおののいたのか、男の声が「ひいっ」と情けない悲鳴をあげる。それを追いかけてくるような足音がだんだん近付いてきていた。
「ま、待てっ!とにかく落ち着け、話し合おう!」
「何度話し合ってもムダだよ!今日こそあんたの腐った性根を寸動鍋で煮詰めてやる~!」
やがて、半開きになっていた勝手口のドアから、二人ののっぺらぼうが飛び出してきた。一人は少し痩せ型、もう一人はその逆で丸々と太ったのっぺらぼうだった。
太ったのっぺらぼうはその手にやたら大きいおたまを持っていて、痩せたのっぺらぼうの頭をベシベシと叩いていた。
何だこいつら、ケンカしているのか?
俺はぽかんとその様子を見ているしかなかったが、母さんはそうもいかなかったらしい。思いきってそいつらに向かって、「あのう、すみません!」と大声を出していた。
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