第16話

「お別れ、言ってあげてね?供花を入れ終えたら、もう棺に釘を入れてしまうから…」


 黒い着物ののっぺらぼうはしばらく俺の手を離さなかったが、やがて葬儀会社の人に促されて、俺と一緒に棺の前までやってきた。


 先に供花を入れ終えた父さん達は、ホールの片隅で俺の様子を静かに見守っている。悲しい空気に包まれたホールの中でも、父さんのネクタイピンがキラキラ輝いていたので、俺は何とか心を乱さずにすんだ。


「どうぞ」


 棺の側に立っていた葬儀会社の人が声をかけてくる。『一宮いちのみや』という名札が付いている以外は、他の奴らと同じ喪服スーツだった。声もくぐもっていて、若いのかそうでないのかも分からなかった。


 棺の蓋は開いていた。てっきり、しっかりと閉められていて、顔の部分に作られている小窓から花を手向けるものとばかり思っていたのに。でも、そのおかげで(というのも変な話だが)、棺の中で横たわっているあいつの姿をちゃんと見る事ができた。


 ひどい事故だったって聞いていたのに、あいつの身体にはそれを思わせるような傷など一つもなかった。


 真新しい死に装束に身を包ませているので、それで見えないだけかもしれない。でも、そこから見える腕や手の先、両足はとてもきれいだ。擦り傷さえない。


 だから、ちょっと声をかければすぐ目を覚まして起き上がるんじゃないかと思った。これで起きてくれたら、ずいぶんとタチの悪い盛大なドッキリじゃねえかと怒ってもやれるし。


 そんな事を思いながら、俺は手にしていた菊の花をゆっくりと持ち上げて、あいつの顔の方へと持っていく。そして、そこで身体が動かなくなった。


「さよなら、ゆんちゃんっ…!」


 順番を待ちかねたのか、誰かが俺の横をすり抜けて棺の中に供花を手向ける。そっと入れられた菊の花は、胸の上で組んでいるあいつの両手のすぐ側に飾られた。


 ゆんちゃん。あいつの事か?今、俺のすぐ目の前にいるのがゆんちゃんで、あいつなのか…?


 俺は、信じられない思いで、棺の中のあいつの顔を凝視していた。


 黒い着物ののっぺらぼうが、隣で鼻を啜っている音が聞こえる。だから、間違いはない。これが、あいつなんだ…。


 俺は、のっぺらぼうの国の王子様のはずだ。今までも、これからも。さっきだって、遺影に映っていたあいつの顔を見る事はできなかった。


 それなのに、何でだ?


 何で今、俺は棺の中にいるあいつの顔がこんなにもはっきり見えているんだ?


 おかげで、「さよなら」が言えなくなっちまったじゃねえか…。

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