第41話
「槙村先生は鬼よ、悪魔よ……!」
静枝が震える声で憎々しげに言った。
「赤ちゃんだから、何も分からないと思ってるんだわ。正也だって、妹を失ってこんなに悲しんでる。妹と一緒に生きたかったって、こんなに! それを、あの人は……!」
「やめろ静枝、槙村先生は最善を尽くしてくれた。これは、誰のせいでもないんだ」
「いいえ! まだやりようはあったはずよ! 槙村先生がもっとうまく手術をしてくれていれば! 神様は不公平だわ、どうして綾奈がこんな目に……!」
妹の死亡届を出すには、その記入欄に彼女の名を記さなければならない。
彼女は両親がずっと前から考えていた名前――紫藤綾奈(しどうあやな)と名付けられたが、それが死亡の証明に必要な『記号』として扱われる事に耐えられなかった静枝は、少しずつ正気を失っていた。
「あなた……、江嶋さんはまだ来ないの!?」
静枝のその言葉に、智彦の肩が大きく震えた。まただ、また江嶋さんにすがろうとしている。そう思った。
静枝が待ち焦がれている江嶋拓朗という男とは、つい先日知り合ったばかりだ。たまたま病院の廊下ですれ違おうとしていたのだが、そのスーツの胸元に心理カウンセラーという職種名が記されたバッジを見てしまったのが失敗だった。
日に日に槙村や周囲への不満が強くなり、子供達への嘆きも増していく妻の姿に、彼も疲れ果てていた。誰か、自分以外にも彼女の心を支え、話を聞いてくれる者がいないかと思っていた矢先での出会いだったので、智彦はすぐに江嶋の腕を掴んで話を持ちかけた。
江嶋がすぐに静枝の心のケアを快諾してくれたのはいいが、やはり失敗したと思う。妻は心を癒すどころか、夫よりも他人の江嶋に執着を抱き、やがては彼の話だけに耳を傾け、信じるようになってしまった。
(こちらからお願いしておいて悪いが……)
智彦がそう思った時だった。
ふいに、個室のドアがノックされ、一拍置いた後で「こんにちは」と挨拶しながら、江嶋拓朗が入ってきた。恰幅のいい体格の上に、ネクタイまでシワ一つない真っ黒な背広を身に着けている。まるで喪服みたいじゃないかという言葉を懸命に抑えて、智彦が言った。
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