第23話

おそらく、六十はゆうに超えているだろう。ピシッと糊のきいたこげ茶色の背広を着ているが、その腰は少し曲がっていて、古ぼけた造りの杖をついている。薄い髪の毛はくすんだ黒色をしており、年相応に顔や手に刻まれたシワも多く、肌は浅黒かった。


 肝斑(かんぱん)の多さのせいもあるだろうが、男の両目はその下のクマと相まってひどく窪んで見えた。


 実際にはギョロギョロとこちらを見つめ続けている二つの眼球がちゃんとあるのだが、まるでそこに小さくも不気味で淀んだ空気を放つ真っ暗な穴が口を開いているかのような気さえしてきて、正也は無意識にぐっと息を詰めた。


 そんな正也の緊張する様子に気が付いていたかは分からないが、男は口の端を大きく歪ませるように笑ってから、もう一度言った。


「君が、紫藤正也君かな?」


 正也の背中に、うすら寒い何かが走った。


 自分の名前を何故この見知らぬ男が知っているのかという思いもあったが、それ以上にその口から発せられた声色が、生理的に受け入れられない。自分の何もかもを余すところなく絡め取って、決して離すまいとする粘着質な意思が感じられたのだ。


 そんな目で見て、そんな声で話しかけてくるのだ。父親の友人とか仕事関係の人間ではないという判断が、正也の中で瞬時に出た。


「……っ!」


 息を詰めたままで返事もせず、正也は男の横をすり抜けようとした。相手は自分よりも小柄な年寄りである上に、杖もついている。ちょっとした駆け足でこの場を離れてしまえば、絶対に追いつかれはしないだろう。


 そう考えて、正也がアスファルトを蹴る両足に力を入れようとした時だった。


「おいおい。ずいぶんとつれない態度を取るじゃないか。誰のおかげで、そこまで大きくなれたと思っているんだ?」


 すぐ真横からやってきたその声と共に、正也の肩に置かれたシワの目立つ浅黒い手。


 決して力強く掴まれている訳ではないし、振り払おうと思えばすぐにそうできるはずなのに、正也の身体はあっという間に硬直して動かなくなった。

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