第19話

そこに綾奈がいるという予想外の驚きに、正也は大きく息を飲んだまま、その場に立ち尽くす。彼からの返事がない事を不思議に思ったのか、綾奈は両腕の動きを止めた後、少し首をかしげた。


「正也さん? どうかしたんですか? あの、まだ五時半ですけど……」

「……あんたこそ、何してんの?」

「何って、朝ごはん作っています。といっても、おにぎりしか作れないんですけど」

「おにぎり?」


 瞬時に眉を寄せて、正也はダイニングに入った。テーブルの上へ学生鞄とスマホを雑に置き、カウンターを回ってシンクの方へと向かう。すると、綾奈の言う通り、シンクの脇に置かれている大皿の上には、これでもかと言わんばかりに大量のおにぎりが乗せられていた。


「何だよ、これ。まさか米びつの中の米、全部使ったんじゃないだろうな……」


 呆れるようにそう言った正也に、綾奈はフフッと小さな笑みを浮かべた。


「はい、頑張りました。中身はシャケとおかかと梅干しです。正也さん、好きですよね?」

「え……? 何で知って……」

「おばさんから聞きました」


 そう言ってから、綾奈は両手の中にできた新しいおにぎりの中に、ほぐした焼きシャケの身を優しく詰めこんでいく。そのていねいな手つきでできあがっていくきれいな形のおにぎりを、正也は不覚にも「うまそうだな……」と思ってしまった。


 綾奈の言葉は続いた。


「小さい頃の正也さんは、おばさんの作るおにぎりをごちそうだと言って、いつもおいしそうに食べてくれていたって。おばさんは、それがすごく嬉しくて仕方なかったと、私におにぎりの作り方を教えてくれるたびに話してくれました」

「……あいつが、あんたに?」

「はい。そして、こうも言ってました」


 綾奈の両手の中で、また一つシャケのおにぎりが完成する。それを、すでに他のおにぎりでいっぱいに盛られた大皿の一番上にそっと積むように重ね置くと、綾奈はふうと小さな息をつき、こう言った。


 いつかまたあの子と一緒に暮らせる日が来たら、このおにぎりをたくさん食べさせてあげたい、と。


 それを聞いた瞬間、正也の眉間にシワが深く刻み込まれた。


 口元は分かりやすいほどに怒りで歪み、ギリッと歯を食いしばった鈍い音がわずかに聞こえる。その音に気が付いた綾奈は、正也の方をぱっと振り返った。


「正也さん……?」

「あいつに言っとけ、ふざけんなって」

「え?」

「父さんと俺を置いて、勝手に出て行ったのはあいつの方なんだぞ。知らなかったのかよ」

「……知ってます。私のせいですから」

「は……?」

「それから、ごめんなさい。その伝言、おばさんに伝える事はできません。ごめんなさい、本当にごめんなさい……!」


 また謝罪の言葉を口にしながら、綾奈はその場で頭を深々と下げる。そして、少し寝ぼけ眼の智彦がダイニングに入ってくるその瞬間まで、彼女は何度も「ごめんなさい」を繰り返した。心底、申し訳なさそうに。

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