第二章 契約一日前

第17話

夢を見た。


 そこは、今の家に引っ越す前に住んでいた古アパートの角部屋で、かなりの年季が入っていたせいか、誰かが床を歩くたびにギシギシとよく軋んで鳴った。


 だから、どれだけ足音を忍ばせようとしてもムダであり、夢の中の幼い正也はその事に目ざとく気付くと、部屋を出ていこうとしていた者の両足にとっさにしがみついた。


「待って! 待ってお母さん、行かないで!」

「正也……」


 小さく正也の名を呼んだのは、母親の静枝だ。静枝は右手に小さな旅行鞄を持ち、残った左手で「誰か」の手を握っていた。


 二人のそんな様子を、百八十センチ以上の大きな身体へと成長した今現在の正也が静かに眺めている。そうか、またあの日の夢かと納得する事ができた。


 だが、夢の中の幼い正也は、どうして母親が自分を置いて出ていこうとしているのかさっぱり分からず、やだやだと泣き喚きながら、彼女の左手を指差した。


「どうしてその子は連れていくのに、僕は置いてっちゃうの? 僕も連れてってよ!」

「ごめんね、正也。こうするしかないの」


 そう言うと、静枝は小さな正也の手をやや乱暴に払う。その拍子に彼はすてんと腰から床に転がってしまったが、彼女は助け起こさなかったばかりか、くるりと背を向けた。


「――が来るまでの辛抱よ、正也」


 静枝の言葉が掠れる。何故か、いつもこのあたりから彼女の声は聞こえにくくなった。


「あなたの――が過ぎたら、必ずこの子と一緒に帰ってくるわ。そしたら、また一緒に暮らせるからね……! 本当にごめんね、正也」


 最後にそう言うと、静枝は振り返る事なく玄関のドアを開けて、手を繋いでいた「誰か」と一緒に部屋を出ていく。


 その瞬間、「誰か」が肩越しに振り返ってきて、床に転がったままの正也と目が合った。逆光で顔はよく分からなかったが、今にも泣き出しそうに口元を歪ませていた事だけは分かった。


「ごめんね。ごめんなさい、――」


 舌足らずな声で謝ってきたその子の言葉も、最後は掠れてよく聞こえない。これもいつもと同じ事だった。


 お前、いったい誰なんだよ……?


 そう思ったとたんに、正也は夢から覚めた。

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