第13話



 紫藤智彦・正也の親子が住む何の変哲もない一軒家は、教会よりさほど遠く離れていない一角で静かに佇んでいる。


 以前の持ち主がどこぞの外国に移住するからと売り出されていた中古の二階建てであり、傷みなどはほとんどなかったものの、父と息子の二人が暮らすには少し広すぎて不便な面もあった。


 だが、正也が小学校へ入学する頃、この家を購入した智彦がこう漏らしていたのを覚えている。


『ここで、いつか家族皆で暮らすんだ。ここが、俺達家族の帰る家になるんだ』


 何を言っているんだ。


 顔も満足に思い出せなくなってきた母親が、自分達の元に帰ってきてくれるはずないじゃないかと、あの時の正也は幼心にそう思っていた。


 もしも、これから先の未来で家族が増えるという機会があるのなら、それは自分が結婚した時くらいだろう。


 そうなったら、男手一つで自分を育ててくれた父親を心からねぎらい、そのパートナーと協力し合って楽な生活を送らせてやりたいと最近ではそう考えるようになっていた。


 ゆえに今、正也は心の底から困惑していた。まさかこんな形で、この家の住人が一人増える事になるなんて思ってもいなかった。


「あの……、お邪魔します」


 紫藤家の前に立ち、その玄関の扉を智彦が開けた瞬間、智彦に続こうとした正也の後方からおどおどとした声が聞こえてきた。


 つい反射的に二人が振り返ってみると、そこには教会を出た時からずっと俯いたままでついてきていた綾奈が、さらに何事か言いたそうに口元を軽くもごもごと動かしている。そんな彼女の両手には小さめの古いボストンバックの取っ手が握りしめられていた。


「……荷物は、本当にそれだけかい?」


 薄く笑いながら智彦が問いかけると、綾奈は静かにこくりと頷いた。


「おばさんに、必要ない物はその都度捨てるようにと言われてきましたから」

「……ふうん。いかにもあいつらしい教え方だな。でも、ちょっと鵜呑みにし過ぎだろ」


 綾奈からふいっと顔を逸らして、正也はさっさと一人で玄関をくぐっていく。「こら、正也!」と咎める智彦の言葉にも振り返らず、背中越しに手を振った。


「風呂入って、寝るよ。あいつのせいで食欲なくしたから、晩メシはいらない。悪いけど、今日は出前とかで適当に済ませといて」

「正也」

「お休み、父さん」


 綾奈にはあいさつする事なく、正也は廊下の奥へと行ってしまう。そんな息子の遠くなっていく背中を大きなため息をついて見送ってから、智彦は申し訳なさそうに綾奈を振り返った。


「すまない、綾奈ちゃん。親バカに聞こえるだろうけど、普段のあいつは誰に対しても人当たりがいいし、本当にいい子なんだ。ただ、静枝の事になるとどうしても……」

「私は、大丈夫です。正也さんの気持ちもよく分かります」


 でも、と言葉を続けながら、綾奈はゆっくりと顔を上げる。彼女の視界の中に正也の姿はもうなく、玄関の奥に見えるフローリングの短い廊下が続いていた。


「正也さんは思い違いをしています。それだけは、何とか……」

「ああ、そうだね」


 こくりと頷いてから、智彦は静かに玄関へと入る。それに続いて綾奈は再び「お邪魔します」と言ってから歩を進めようとしたが、くるりと顔だけ振り返ってきた智彦にこう言われた。


「綾奈ちゃん。自分の家に帰ってくるのに、『お邪魔します』はおかしいだろ?」

「あっ……」


 一瞬たじろんで、綾奈はきょろきょろと周りを見回る。彼女の長い黒髪がパサパサと軽い物音を立てた。


「あの、おじさん。ただいま……」


 ほんの少し経ったところで、恥ずかしそうに綾奈が言葉を訂正する。智彦は満面の笑みを浮かべてから「お帰り」と言ってやった。

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