第3話
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
十六年後。
彼女は、とある小高い山のふもとへと続く道を全力で駆けていた。
つい先ほどまで、その山の中腹あたりを日暮れ時特有の暖かいオレンジ色が優しく包み込んでくれていたというのに、今はほの暗い藍色の世界に塗り変わってしまっている。
一寸先の視界もおぼつかない上に、ろくな舗装がなされていないそんな山道を、彼女は大きく息を切らして走り続けている。その表情は大きな不安と驚愕、そして恐怖というものでひどく歪み切っていて、何度も肩越しに己が来た山道を振り返った。
(何で……何で、ここが分かったの!? 奴ら、どこまで追ってくるつもりなのよ!?)
彼女が……いや、「彼女達」がこのへんぴな田舎の、さらに外れに位置する山あいの空き家へ引っ越してきたのは、わずか半年前の事。あの人に引っ越しをする旨は伝えていたが、用心の為にと住所までは教えていなかったし、近くの集落に住む人々ともほとんどコミュニケーションは取っていなかった。
今度こそはと思っていたのに。誰とも関わらず、二人で静かに隠れ住んでいれば、きっと『あの日』まで何事もなくやり過ごせると思っていたのに……。
切れ続ける息を飲みこみ、前歯で唇をぎゅっと強く噛みしめる。それと同時に、彼女のすぐ目の前に粗末な造りの山小屋が見えてきた。
彼女は山小屋のドアに飛びつくと、そのまま乱暴に開け広げ、六畳ほどの広さしかない一間(ひとま)の中へと飛び込んだ。
「逃げるわよ、奴らに見つかったの!!」
一間の中は、真っ暗だった。天井からぶら下がっているはずの古くさい形をした電球は灯っておらず、必要最低限の生活用品しか整えていない様子も、彼女が求めている者の姿も見えない。
それでも、彼女は必死に叫び続けた。
「どこにいるの!? 早くしないと、奴らに追いつかれて……」
その時だった。
ふいに、彼女の背後から聞き慣れない不気味な物音が聞こえてきたのは。
ズルッ、ズルゥッ……。
ヌチャ……、シュルシュルシュル……。
彼女の身体は、戦慄で凍りついた。
(どうして……? まだ、『あの日』まで時間はあるのに! そういう契約だったはずなのに……!!)
全身が、ガタガタと激しく震える。駆け続けてきたせいで切れていた息づかいがさらに短くなり、かえって苦しかった。
彼女の背後には、その気配の主がいた。あの不気味な物音を纏わせ、おぞましいほどに感情が伴っていない冷たい瞳で自分を見つめている事が分かる。
そう悟った時、彼女は静かに覚悟を決めた。自分は奴らに負けた、もう終わりなのだと。
でも、最期にもう一度だけ。最期にもうひと目だけでも……!
「あ……」
優しい声色で呼びかけようと、彼女はゆっくりと後ろを振り返る。だが、それが叶う事はなかった。
後ろを振り返ったその瞬間、彼女の全身に何かが幾重にも巻きついた。それがいったい何であったかなど、真っ暗な一間の中にいた彼女には知るすべがなかった。
……バキィッ!
そして、数秒後。わずかな抵抗もできずにいた彼女は、その何かが自分の首をへし折るものすごい音を聞いた。
バギボギボギバギィ……! グチュ、グチュギチュブチュゥ……!
続いて、全身の骨という骨を無残に砕かれ、関節をありえない形に捻じ曲げられ、内臓を全て容赦なくつぶされていく。瞬間的に遠ざかっていく意識の中、彼女は思った。
(どうして、こんな事に……。私達はただ、幸せになりたかっただけなのに……)
涙の代わり、だったのだろうか。
彼女の顔であったはずの部分。つぶされて落ちくぼんだ眼孔から、かろうじて残っていた眼球が一つ、ゆっくりと垂れ始める。
そして、誰の目にも触れる事なく、山小屋の床へと悲しげに転がり落ちていった……。
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