第62話

それは、菊池の成績が著しく落ちた事を知った長谷部が、無償の家庭教師を買って出た頃の話だ。


 長谷部の教え方は、いくら素人とはいえ、おせじにもうまいとは言えなかった。


 学校の先生や塾の講師と比べてみても、一目瞭然なほど雑な感じが見受けられる。家庭教師を買って出たわりにはあまり熱意がこもっているふうにも見えなかったし、いつも「ここはこうで、ああすればそうなる」としか言わなかった。


 だが、そこは気心の知れた仲の成す賜物と言うべきなのだろうか。菊池は他の誰に教わるよりも、ずっと早く理解できるような気がした。


 実際、そんな雑な教え方だというのに、成果は少しずつ伸びていって、その日も菊池は長谷部が持ってきた受験対策用の数学の問題集を自力で十問以上解く事ができた。


 百均で買ってきた赤ペンで添削を終えた長谷部は、真横の勉強机に座っている菊池にねぎらいと思われる言葉をかけてやった。


「へえ、さすが俺が教えてやっただけあるな。あともうちょっと頑張れば、俺の大学なんて目をつぶってでも合格できるようにしてやるから、その時は感謝しろよ?」


 まだタバコのヤニで汚れていない真っ白な歯を見せながら、長谷部はニカッと笑う。つられて、菊池もへらっとしまりのない笑顔を見せた。


「そりゃ、もちろんっすよ。合格できた暁には、何でもお礼させてもらいますから」

「いいんだよ、そんなのは。俺がまたお前と同じガッコに行きたいってだけでやってんだから、受験生がそんな気ぃ遣うな」

「でも、長谷部先輩のせっかくのキャンパスライフの時間を割いてまで勉強見てもらってんですから、そんくらいはしないと俺の気が…」

「…ああ。確かに、サークルの連中には付き合い悪くなったってうるさく言われてるけどな」


 そう言って、決まり悪そうに後頭部を掻く長谷部に、菊池は「ん?」と首をかしげた。


 長谷部はこの時、大学二回生だった。それまでいかにキャンパスライフというものが、高校までとは違う充実したもので満ち溢れているかいう事を熱弁されてきたが、彼のその口からサークルに入ったという事は聞かされていなかった。


 だから、菊池は自然のままに、こう聞いた。


「長谷部先輩、いつの間にサークルなんて入ったんっすか?」

「ん?ああ、去年の暮れだったかな。サークルって言っても、俺を入れて三人しかいない同好会止まりのもんだよ。付き合いが悪いっていうのも、勧誘活動を真面目にやらないっていう意味だか、ら…」


 ふうん、とちょっと興味ありげに返事をする菊池のその様子に、長谷部の口が嫌らしく持ち上がる。


 長谷部は菊池の両肩を画尻と強く掴むと、その耳元に囁くようにしてこう告げた。


「き・く・ち~♪やっぱお礼してもらおっかな~♪」

「え…」

「ぜひぜひ、先輩のノルマ達成に協力してくれ。たった今、約束したからな」


 そう。菊池が長谷部と交わした約束とは、彼が所属しているサークルに新入部員として加入する事だったのだ。

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