第30話

「大山さん、身体の具合はどう?あれから、特に何かあったって事はないよね?」

「…は?」


 たっぷり時間をかけて返した返事は、たったそれだけだった。だって、何の脈絡もなく、いきなりそう言うんだもん。「は?」以外、何も言える訳がない。


 妹尾の視線は、もう『山月記』のページだけに注がれてる。本当、何こいつ。自分の方から話しかけてきてるくせに、こっち見ないとかありえなくない?会話する気があるのかないのか、どっちな訳?


「…あれからって?」


 あたしも左手の本に視線を落としっぱなしにして答えた。げっ、何この本。『初めてのカーリング』なんてタイトルだし。間違えて持ってきちゃった。


「いつからの事を言っているのか、全然分かりませ~ん。何せ、あんたとはほとんどしゃべってないからね」

「少し前だよ」


 パラリ。妹尾がページをめくる音が、やたら大きく聞こえた。


「体育でソフトボールの授業があった頃だよ。大山さん、足のせいで少しよろめいたでしょ?」


 すぐに、嫌な記憶が蘇ってきた。そうだよ。あの時こいつ、あたしが倒れたりすると皆が騒ぐから困るなんて言ったんだった。


 へえ。まさか、あの時の事掘り返してくるなんて思わなかったわ、この空気野郎。あんた、人にケンカ売る才能あるんじゃないの?


 あの時のムカつきとかも蘇ってきて、無性にたまんなくなる。あたしは持っていたシャーペンをとんでもなく乱暴に机の上へ叩き付けると、まだこっちを見ようとしない妹尾の手から『山月記』の本を奪い取ってやった。「あ…」なんて、短い声が妹尾の口から漏れた。


「足のせいだなんて言わないでくれる…?」


 あたしのぎろっとにらみつける目と、妹尾のゆっくりとこっちを見てくる目がばっちりと合う。普段ならこいつと目を合わせるなんて死んでもごめんなんだけど、今だけ勘弁してやるわ。


「あたしだってね、好きでこんな身体になったんじゃないし。あの火事で死んでたっておかしくなかったのを、この程度で済んでむしろラッキーって思えてんの」

「……」

「あたしだって、できる事なら皆と一緒にスポーツしたり走り回ったりしたいよ。でも、どんなにそう思ってたってうまくできないの。そんな事も分かんないくせに、何が『あたしが倒れたら皆が騒ぐから困る』よ。ふざけんじゃ…」


 言ってるうちにだんだん声のボリュームが大きくなっていって、それに気付いた図書委員が「静かにして下さい」ってカウンターから言ってくる。何よ、注意するならこっち来て直接言えば!?


 あたしの怒りの矛先が図書委員にも向こうとしているのを、❝あいつ❞が感じ取ったかは分からない。でも、確かに❝あいつ❞はこう言ったんだ。


「だって、本当に困るんだ。僕はそれができなくなるほど、人間を捨てたつもりはないから」

「え?」

「あの時、大山さんが倒れでもしていたら、当然皆は騒いだと思う。でも、きっと僕は騒ぐ事もできなくて、痛みに苦しむ大山さんをぼうっと見ていただけだと思う。そんな時でもどうしていいか分かんなくなってたと思う。皆とあまり話さないから…」

「……」

「本当に、彼がうらやましいよ」


 ❝あいつ❞の視線が、あたしの手に奪い取られた『山月記』にまた注がれている。あたしはまだ、❝あいつ❞の言葉の意味を理解する事ができなかった。

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