第29話

妹尾は大量の本に埋もれそうになっているあたしとは対照的に、その手に一冊の本しか持っていなかった。


 他にも席はいくらだってあるっていうのに、わざわざあたしに断りを入れてまで前の席に座って読んでいるのは…やっぱり『山月記』で。


 冗談でしょ、何で?


 そんな思いでいっぱいだったあたしは、さぞかし変な顔をしてたに違いない。ふと、妹尾がふいっと顔を上げてきてあたしと目が合った瞬間、何とも言えない微妙な表情を浮かべた上に、小さい声でこう言った。


「どうしたの、大山さん?そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔して。とにかく、その開けっぱなしの口を閉じたら?飴玉が丸見えだよ」


 思わず、「むぐっ」って変な声が出る。妹尾の言う通り、放課後になったから別にいいかと思って、図書室に入る前にイチゴ味の飴玉を口に放り込んだ。図書室に飲食物の持ち込みは厳禁ってなってるから、匂いにさえ気をつけてればいいと思ってたのに…。


「何よ…」


 急に罰が悪くなって、あたしは口の中に含みっぱなしだった飴玉をガリガリと噛み潰す。そしたら、イチゴの匂いがほんの少しだけ強くなって、あたしと妹尾の間をふわりと漂った。


「別にいいでしょ。学校は終わってんだし、今は必要に応じてここにいるだけなんだし」

「うん、そうだね。これが授業中とかだったら話は別だと思うけど、放課後の今なら僕だってどうこう言うつもりないよ。ただ、あそこの図書委員も同じ考えとは限らないから念の為に言っただけ」


 そう言った妹尾の視線は、カウンターの中にいる図書委員と『山月記』のページの間を行ったり来たりしている。


 何、こいつ。もしかして、あたしが図書委員に怒られたりしないように見張ってるつもり?小学生じゃあるまいし、バカじゃないの?


 あたしはふうっと少し長い息を吐き出した後、改めてシャーペンを握りしめてレポート用紙に顔を向けた。


 どういうつもりか知んないけど、もう無視無視。そうだ、こいつの事はもう空気だと思って放っておこう。墨汁から空気にまでランクダウン。うわ、我ながらナイス思考。まさしく、妹尾にぴったりじゃん♪


 左手に持った本の中身なんて、ちっとも頭に入らない。「妹尾=空気」の公式がおかしすぎて、本人が目の前にいるのに含み笑いが抑えきれない。


 図書室だって事も忘れて、大声で笑い飛ばしたい。て、いうか、やる。笑い飛ばす。別に怒られたっていいし。


 鼻から深く息を吸って、後は口から大きな笑い声を吐き出すだけ。それなのに、そんなあたしより一瞬早く、妹尾が言った。

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