第31話
「今井さん」
くるりと振り返る大窪さんに、自分の足も止まる。真摯な彼の顔が、すぐ目の前にあった。
「お嫁さんが心配するお気持ち、私にはよく分かります。今井さんやお孫さんの為にも、今日でもうこれっきりにしましょう」
「えっ…!?」
「私の為に、あなたまで謂れのない言葉を浴びる必要はありません」
先に言われてしまって、自分はひどく動揺した。
二日前、美代子さんからほぼ同じ話を聞かされ、「分かったら、縁を切っておいて下さいね!正太の為なんですから!」とひどく念押しされた。信じられないと思いつつも、正太の為と言われたせいか、その場で突っぱねる事もできなかった。
そして今、事実を当人の口から聞かされても、どうしてもそんな気になれない。先ほどの言葉を撤回したい気持ちの方がはるかに勝っている。
それなのに、大窪さんはさらりと自分が言い切れずにいた言葉を口にした。おそらく何度も同じ事を繰り返してきて、自分に対してもある程度の覚悟があったのかもしれない。
だが。
「いけません」
自分は首を横に振りながら言った。
「もう何十年も昔の事でしょう?ワシは今のあなたしか知らないし、恩だって感じている。先ほどの言葉は聞かなかった事に…」
「ダメですよ、今井さん」
そう答える大窪さんは、静かに笑っていた。
「今井さんはご家族と、どうか穏やかに」
「そんな…ならば、何故ワシを誘ったりなど!」
「それは…」
そこで、大窪さんの言葉が止まる。両目の瞳がきょろきょろ動いて、落ち着かない。言うべきか言うまいか悩んでいるのか…?
だが結局、大窪さんはそこから先を話す事なく、自分に背中を向けて走り去った。
自分はこの時をずっと後悔する事になる。何故引き止めて、もっと話をしなかったのかと。
これが、大窪さんを見た最後だった。
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