第12話

ある日の昼過ぎの事だった。


 美代子さんが出かけていったすぐ後、自分の腹がぐるるとみっともない物音を立てた。


 そういえば、今朝は食パンと炒り卵にサラダだったなと思い出す。和食を得意としていた妻の食事とはまた違うが、あれはあれでうまい。ただ、腹持ちだけは悪かった。


 いつものように、美代子さんからもらった五百円玉を自室の隅に隠してあるガラス瓶の中に収め、代わりに自分の財布を手に取る。そして、正治からもらった合鍵を持って、家を出た。


 玄関を出て、一歩踏み出す。さあ、今日はどこに行こうか。


 この町は、いわゆるベッドタウンというものらしい。正治の会社はこの町の最寄駅から一時間ほど電車に揺られた先にある。その周囲にはそれなりに飲食店が数多く立ち並んでいるそうだが、この町にあるのはコンビニか、徒歩十五分ほどのそば屋くらいだ。


 まだ、一人でこの町より遠くへ出かけていく気分になれない。だとすれば、やはり今日もコンビニの弁当か。いや、やはり一番安いかけそばにしようか。それとも…。


 そう考えあぐねながら、コンビニとそば屋のある東の方向に歩き始めた自分の前方から、一つの人影が近付いて…いや、走ってくるのが見えた。


「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、ほっ、ほっ!」


 短い息遣いを繰り返して走ってきたのは、顔だけ見れば自分とさほど年が違わないくらいの男だった。だが、本格的なユニフォームと短パン姿で軽快に走っている姿はとても雄々しく、そして若々しく見えた。


 その男を見たのは今日が初めてだったが、何故か自分は彼から目が離せず、失礼ながらもじいっと見据えてしまった。


 当然、男は自分の視線に気づいてこちらを振り返る。そして、ニコッと笑って軽い会釈をすると、そのまま私の横をすり抜け、走り去っていった。


 思っていなかった男の反応にすっかり遅れてしまい、私は慌てて小さくなっていく彼の背中に一礼する。


 バカだな、見えやしないというのに。


 そうは思うものの、どこか嬉しかった。この町に来て、初めて家族以外と交流を持てたような気がして、嬉しかった。


 それから、平日の昼過ぎに玄関を出れば、ユニフォーム姿の男と必ずすれ違うようになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る