第9話

正治の暮らす地方都市へ向けて引っ越しをする前日、正治は美代子さんと子供達を連れてやってきた。どうしたのかと聞けば、明日の手伝いに来たのだと言う。


「明日は忙しくなるから、今夜はどこか食べに行こうか」


 正治がそう言うと、子供達はきゃあきゃあと喜んだ。二人はそのまま自分の足にしがみつき、「じぃじ、じぃじ」と話しかけてくる。


「明日から、じぃじと一緒に暮らすんでしょう?よろしくお願い致します!」

「ごじゃーましゅ!」


 まだろれつが回らない三歳の奈緒美(なおみ)が兄の言い様を必死に真似しているのは微笑ましかったが、その六歳の兄、正太(しょうた)の堅い言葉遣いに、玄関先に立ったままの美代子さんがひどく満足げに口の片端を持ち上げ、うんうんと頷いている。


 ほんの十年ほど前、同じように玄関先に立って緊張気味に挨拶してきたあのお嬢さんと本当に同一人物なのかと、疑いたくなった。


 食事を済ませたその日の晩、自分は孫達に挟まれて床に着いた。


 今の正治と同じ年頃に手に入れ、妻と共に過ごし、正治を無事に育てきったこの家も処分する事が決まっている。自分が出ていけば、すぐに取り壊しが始まる手筈だ。


 もう、ここに戻る事はない。そう思ったら、勝手に涙が滲んできて、なかなか寝付く事ができなかった。布団の中で安らかに眠る孫達の温かさだけが、慰めだった。

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