第8話

こちらをじっと見つめながら、「なあ親父、そうしよう」と言ってくる正治に、自分はゆっくりと首を横に振った。


「美代子さんが嫌がるだろう?」

「…美代子は俺が説得する。文句は言わせないさ」


 少し息を詰めてから答えてきた正治に、やはりそうかと思った。


 結婚後、美代子さんは仕事を辞めて家庭に入り、やがて二児の母親になった。上の男の子は来年で小学校に上がり、下の女の子はまだまだ手のかかる三歳だ。


 美代子さんが上の子に、いわゆる「お受験」なるものを受けさせようとしていると聞いたのは、少し前の事だ。


 子供はのびのびと育てたいという正治の考えと反し、美代子さんは子供達に完璧な人生を希望しているようだった。今の世の中、やはり学歴が物を言い、いい就職、いい人生を得られるのだと豪語してやまないと。


 そのお受験とやらの準備にいろいろ忙しくて、とても私の世話まで気が回す余裕がないのだろう。いつか言い出してくれるだろうと思っていた同居の「ど」の一文字さえ、彼女の口から出てくる事がなくなったというのに。


「家長の俺がそうするって決めてるんだ。いいから、一緒に暮らそう。この様じゃ、毎日様子を見に来なきゃいけないんだから、同じ事だろう?」


 と、正治はもう一度部屋をぐるりと見渡した。


 それはそうだろう。整理整頓が大変上手かった妻がいた頃とはあまりにも違う、部屋の有り様だ。


 中身がごちゃ混ぜのごみ袋があちこちに置きっぱなしだし、脱ぎ散らかした服や下着も散乱している。妻が生きていたら、さぞかし叱られる事だろう。


 そんな事をぼんやり思っていたから、何度も一緒に暮らそうと言ってくれる正治に了承の返事を出すまで、かなりの時間を要してしまった。

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