第89話

「安西」


 背中の向こうから聞こえてくる、いつもの呼び声。ここ最近ですっかり聞き慣れてしまっている事に辟易(へきえき)しながら、私は肩越しに振り返る。


 案の定、そこには宏樹がいた。


 私を追いかけてきたその息は、まだ捻挫がしっかりと完治していない右足のせいで、少し荒い。松葉杖はもう必要ないようだが、すぐ側にある電柱に手をついている事から、まだうまくバランスが保てないんじゃないかと思った。


「どこ行くんだよ、お前」


 宏樹が言った。


「五時限目、とっくに始まってるぞ。皆、お前がいないから余計に苛立って、好き勝手言ってる」

「…言わせとけばいいじゃん」


 私はゆっくりと道を引き返して、宏樹のすぐ目の前に立った。そして、宏樹が手をついている電柱に背中を預けて、言葉を続けた。


「何か言い返すのも面倒だし、後藤にあれこれ説教食らうのもウザい。それ以前にさ、何で私だけ責められなきゃいけないの。皆も楽しんでたでしょ」

「安西…」

「じゃあね。早く戻って、日誌に『安西、早退』とでも書いといてよ」


 そう言って、私は再び宏樹に背中を向けて歩き出そうとする…が、宏樹が私の肩を掴んで制した。力強い声で、こう言いながら。


「俺の名前も一緒に書いてきたから、その辺は大丈夫。それより、今からあいつの所に行かないか?」

「…あいつ?」

「そう、あいつの所」


 ちょっと怖いと思うくらい、宏樹がまっすぐに私を見つめてくる。だが、その代わり、何故かさっきまで感じていた不安がきれいさっぱりなくなっていたのも事実だった。

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