第89話

着替えやらなんやらを準備しないといけないから、一度家に戻る事にした。


 いつもより早い時間に作業を切り上げはしたものの、やはり身体中は土色に汚れていた。それを気にしなかったのは「お風呂くらい貸すよ」とまで言ってくれた智之の言葉があったせいだろう。


 意気揚々と自転車のペダルを踏んで、家に戻った。いつもなら専業主婦だったお前のおばあさんがいるんだが、多分買い物に行っていたんだろう。この時、いなかったんだ。


 当然、おじいさんもいないと俺は考えていた。おじいさんの仕事場は家から車で小一時間は離れた場所にあったし、この時間に帰ってくるなんて事も滅多にない。


 携帯電話もなかった時代だ。書き置き一つ残しておけばいいだろうし、おばあさんならともかく、そもそもおじいさんの許可を取る必要性がどこにある。


 そう思って、俺は玄関をくぐり、荷物をまとめようと自分の部屋に足を向けた。その時だった。


「隆一、ちょっと来い」


 あまりの驚きに、びくりと肩が震えたよ。何でいるんだ、という言葉を喉の奥に押し込めるのに必死だった。


 それをようやくこなして肩越しに振り返ってみれば、おじいさんが太い腕を組んで俺をじっと見つめている様が窺えた。

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