第94話
先生はキャンバスをまじまじと見つめていた。
さすがに自信作と呼べるほどの出来ではなかった。筆のタッチはまだまだ雑だし、色使いだってオリジナリティーには程遠い。
でも、それでいいと思った。実力や技量の問題ではない。心の思うままに描く事ができたこの絵に、これ以上の事はしたくなかった。
「うん、まあまあだな…」
先生がキャンバスの縁をなぞるように触れながら言った。
「これで完成なのか?いくつか気になる所があるんだが」
「ええ、分かってます。でも、できれば手直しなどせず、このままでいきたいんです」
「そうか…」
先生がにっと笑った。
「佐伯がそうしたいなら、そうすればいいさ」
「ありがとうございます」
「タイトルはあるのか?」
僕は頷いた。
「ええ。『初恋』といいます」
キャンバスの中には、チリがいた。
両手いっぱいに娘を抱き締め、こちらに向かって笑いかけている。
あの明るくて騒がしい声が聞こえてきたような気がする。
錯覚だという事は分かっていた。だが、この一枚を描きあげた僕にとって、そんな曖昧ではっきりしないものでさえも、今はいとおしかった。
(完)
君のために、僕は笑う。 井関和美 @kazumiiseki
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