第84話

「だから、急いでいるって言ったのか?」


 僕は、チリの言葉を思い出しながら言った。


「だから、早く夢を叶えたかったのか…?」

「うん」


 チリは、僕と健司を交互に見つめていた。


「時間がない分、早く恋というものをしてみたかったの。好きな人とキスをして、好きな人の子供を産んで…。出産なんて、文字通り命懸けでしょ?半分以上は諦めてた夢だった…」

「チリ」


 健司がチリに一歩近寄った。それと同時に、僕はベッドから一歩後ずさる。できるだけ健司の声を聞かないですむように背中を向け、子供のように稚拙でささやかな抵抗を試みていた。


「チリ、俺はな…」

「本当にありがとう、ケン」


 健司がさらに一歩身を乗り出して言葉を発しようとしたが、チリの感謝の声がそれを遮った。


「私の夢、叶えさせてくれて。葵と出会わせてくれて…」

「ああ。俺もだ、チリ」

「ケンの気持ちは、あの時充分に伝わっていたよ。だから今度は奥さんの番…、大事にしてあげてね」


 チリの言葉に、健司はこくりと頷いた。

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