第80話
「私、急いでるのよ」
「話はまだ途中だ。逃げるのか」
「時間がないのよ、だから早く夢を叶えたかった…」
「好きな奴とキスしたり、そいつの子供を産みたいって奴か?ふざけるな。そんなもの、急いでやる事じゃない。個人差はあるだろうが、少なくとも時間を大事に使ってゆっくりと育んでいくもんだろう」
「……」
「何でそんなに急ぐ必要があるんだ?」
チリは、僕の問いに答えなかった。伝票を持ってゆっくり立ち上がると、そのまま会計を済ませて喫茶店を出ていってしまった。
チリが葵の目の前で倒れたと知らされたのは、それから二時間以上も後の事だった。
†
『…はい、高村です』
「俺。佐伯だけど…」
僕は先生から強引に聞き出した健司の自宅の番号に電話をかけてみた。運良く電話に出てくれたのは健司本人で、僕はほんの少しだけほっとした。
僕の名前を聞いて、電話口の向こうから健司の戸惑う気配が伝わってきた。
あれから、健司とは会っていなかった。何も知らずに絵画教室に来てくれる美代子さんにさりげなく彼の様子を尋ねても、「健司さんですか?とても元気ですよ」と当たり障りのない返事を返されるだけで、当然だが彼の心情を知る事はできなかった。
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