第58話

ぐすぐすと軽く泣きだした葵に気付いて、チリは持ってきていた大きめのカバンから水筒と哺乳ビン、そしてミルク缶を取り出した。


 片手なのに慣れた手付きで水筒から適温のお湯を哺乳ビンに注ぎ、適量の粉ミルクを入れて素早く振ってみせる。僕がほんの少しぼんやりしている間に出来上がったミルクは、すぐに葵の口元に運ばれていった。


「ね?奇跡みたいでしょ?」


 夢中になってミルクを飲んでいる葵を、チリは幸せそうに見つめていた。


「一年前の私なら、絶対にできなかった事だもの。こんなに求められる事はなかったもの」

「うらやましいよ、チリ。大人げないけど、ちょっと妬いてもいる」

「誰に?」

「決まってる」


 僕は言った。


「お前の旦那さんだよ。どんな奴だろうと思っていたけど…」

「お生憎様」


 チリは僕の言葉を遮った。


「旦那はいないんだ」

「え…」

「俗に言うシングルマザーよ。相手は葵の事を知らないの」


 あまりにあっさりと、そしてあっけらかんと言い放つチリに僕は言葉を失った。

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