第55話

突然耳に入ってきた若い女の声に驚き、僕は反射的に入り口の方に顔を向けた。


 見ると、そこには大きな買い物袋を両手に提げた一人の女性がくすくすと笑っている。その胸元にも、何かを包んでいるような大きな布が提げられていた。


「あら、お帰りなさい」


 女将が口早に言った。


「ごめんね、智里ちゃん。重かったでしょ、大丈夫だった?」

「平気です、母は強しって言うじゃないですか」


 女性はそう言って、提げていた買い物袋をカウンターに置く。僕は彼女のそんな一挙一動をぼんやりと見ていた。


「チ、リ…?」


 僕が小さく呟くように言うと、彼女は「ダメなんだからね?」と笑顔で応えた。


「女将さんの料理って確かにどれもおいしいけど、食べたいものくらいは自分できちんと選びなさいよ。どれでもいいとか何でもいいなんて、ちょっと感心しないな」


 幼なじみの男と同じ言葉を口にして、チリはまた笑った。チリの胸元にある布の中では、生まれて間もないような小さな赤ん坊がすうすうと寝息を立てているのが見えた。

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