第32話

「おい、上条」

「…ねえ、キスしない?」

「は?」

「聞こえなかった?」


 チリが僕をじっと見上げていた。聞こえてはいたが、彼女の言葉の意味がとっさに理解できなかった。


 ぽかんとして固まっていると、チリがずいっと近付いてきて、僕のTシャツを引っ張った。その次に僕が認識できたのは、チリの柔らかい唇が僕のそれに触れる感触と、こんぺいとうの微かだか甘い匂いだった。それらはほんのわずかな時間だったのに、通り雨の音のせいか、ひどく長く感じられた。


 チリの唇が僕から離れた時、彼女が漏らしたわずかな息遣いが僕の頬を掠めた。突然の出来事に驚く事も怒る事もできずにいる僕に、チリはぼそりと言った。


「忘れちゃうのかな…」

「え?」

「大人になったら忘れちゃうのかな、今の気持ち」

「…チ、リ…」


 この時、僕は初めて彼女をチリと呼んだ。チリはまた僕を見上げている。通り雨がやむまで、僕達は互いを見つめ続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る