第3話

「チリ…!」


 男は僕には一言の挨拶もなく、どかどかとした足取りで玄関をくぐると、さっきまで僕がいた部屋へ一直線に進んでいった。葵には、目もくれなかった。


「遅かったな、ケン」


 僕は男に向かって短く言った。


「十二時までには来ると言ったろう?」

「仕事だった」

「またそれか」


 僕は、また長く息を吐き出した。


 ケンは部屋にぽつんと置かれた棺桶を立ち尽くしたまま、じっと見下ろしている。その右手は棺桶に触れたいのか、ぴくぴくと動いている。肩幅が広く、がっちりとしているはずのその身体が少し小さく見えた。


「チリ…」


 ケンの口から、切なげな声が漏れた。


「チリ、チリ…」

「そこにあるのはチリじゃない」


 僕はケンの横に立った。それと同時にケンは膝を付き、ゆっくりと棺桶の蓋を撫でる。その時のケンの顔は、それまで見た事もないような慈愛の色を浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る