第58話

「今日、沢山の人が来てくれたね」


感慨深げに真尋が呟く。

俺は頷いた。


「6年経ってもあんなに…身内以外にもあんなに来てくれるんだもん。ママって本当に慕われてたんだなって改めて思った。…ママも喜んでくれたかな」


瞳を庭の景色へと移しながらまるで独白のように語られる真尋の言葉に、ただ耳を傾ける。


俺に同意を求めていないその口振りと穏やかに笑む表情の先にあるのは、幼き日の母の思い出だろうか。

かの人の面影を色濃く残すその横顔は、ハッとするほど綺麗で、胸が高鳴った。


抱きしめたくなって伸ばしかけた手を引っ込めるのは、これで何度目だろう。


「…ねぇ、司。前に私が持ってた楽譜覚えてる?」


不意に問われ、密かに握りしめていた拳が緩まる。

楽譜との言葉に記憶を遡らせた。


「…G線上の…アリア?」

「そう、G線上のアリア。あの曲、ママがよく弾いてたって言ったよね?」

「うん、言ったな」

「あれね、ママが初めてパパのために弾いた曲なんだって。だから、2人の凄く大切な思い出の曲なの。家族やみんなで集まる時にはいつも弾いてたよね」


景色を見つめながら語る真尋。

その姿は、まるでその場面を映したビデオを観ているかのように、葉や石や、その他の全てを通り越した向こう側を見ているかのよう。


すると俺の中にも記憶の断片でよく耳にした調べが流れ込んできて、意識の内で耳を傾ける。

優しく大きな愛おしさを帯びていた、温かな音色だった。


「私もいつかママみたいに弾いてみたくて練習してるんだけど…全然上手く弾けないの。ママのようには、全然。先は長いなぁ」


母親の面影を追う真尋のその声は、弾けないと言いながらも落胆した色はなくて、この先を夢見ているかのような明るさを帯びている。

そして、その「いつか」には明確に期待している対象があるように思えた。


真尋は、いつか誰かのためにあの曲を弾くつもりなんだろう。

ずっとそう願ってきたに違いない。

そして、その相手はもう決めてある。


真尋は、母が父にそうしたように、遠藤のためにあの曲を弾きたいのだ。


そう思うと、胸が苦しくてたまらなくなった。

真尋の思い出の延長線上にいるのは俺じゃなく、遠藤なのだ。



…なぁ、真尋。

今、お前の瞳に俺は見えているのかな。

隣にいる俺の姿は、ほんの少しでも映っているか?


訊いてみたくなる。

でも、訊いたところで答えはわかりきっている。


それでも胸にある想いを捨て去ることはできなくて、俺は唇を噛み締めた。



中へ入ろうかと促して微笑む真尋。

傘が俺をすり抜けて、雨粒を落とす。


目の前に咲くそのオレンジは、やっぱりとても鮮やかで。

とても、とても、綺麗だった。

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