墓標は海の上

hibana

墓標は海の上

 その海賊の名は、バレンワート・バンデーラ。

 荒くれ者の海賊の中でも、札付きの悪党だった。とにかく冷酷で、憐れみを知らず、その性質ゆえに船を乗っ取り船長と呼ばれた男だった。


 バレンワートは下剋上の末の船長であったが、どの海賊より手下たちに支持されていた。好きに奪い、好きに殺し、好きに生きるという自由な方針が荒くれ者どもの気性に合っていたからだろう。彼自身下剋上をよしとしながらも、その地位が揺らぐことはなかった。


 バレンワートにはあちこちの港に女がいたが、ある日海の魔女までもが彼を誘惑した。それに対しバレンワートは、言った。

「俺が育った国じゃ、“嫉妬狂いの海の女に海の底まで連れられる”なんて諺があったもんだ。まあ、ガキへの脅し文句だな。海の女に魅入られればそのまま底まで連れていかれて死体も見つからない。とりわけ夜の海に近づくなと。俺ぁ、まだ海底に連れていかれるつもりはない」

 海賊は魔女を嗤った。


 その日の晩、バレンワートは夢を見た。恨めしげな目をした魔女が、「お前の言うとおり」と囁く。

「海の女は嫉妬狂い。お前も、女になればわかる」と。


 翌朝目覚めたバレンワートは、違和感を覚えながらもいつも通りの享楽に興じた。鏡を見ても、身体に変わったところはない。手下どもも、いつもと何ら変わりはない。

 変わりはないが――――


(どうも妙だ。野郎どもが不快に感じる。馬鹿ばかりで不快なのはいつものことだが、今日はなんというか……)


 臭い。男臭い。


 バレンワートは席を立ち、「お前らは臭くてかなわん」と自室に戻る。手下たちは「ひでえや船長」「あんたも変わりゃしないでしょうよ」と笑っていた。

 変わりゃしないだと? バレンワートは自分の臭いを嗅いでみる。違う、と直感的に思った。もちろん船の上にいる以上、もう何日も体を清めていないのは同じだった。においなど今さら誰も口を出さない。だが奴らのにおいは耐えられない。港に寄って真水を手に入れ、全員の体を清めさせるか?

 そう考える一方で、『どうしたんだ俺は』と当惑を覚えているのも確かだった。野郎どものにおいが気になるだって? 今までそんなことは一度もなかった。


 頬杖をつき、バレンワートは気を取り直してこう考える。

 どうせ港に寄るなら、そこらのガキでも捕まえて大陸に売っちまうのがいいだろう。海賊が生計を立てる方法はいくつかあるが、バレンワートの船において一番の稼ぎは人身売買だった。

 今のところ金には困っていないが、あればあるほどいいもんだ。ガキを売る前にその親から金を搾り取るのもいい。

 それから、酒場で酒を呑む。今度はどの女を侍らせるか。

 考えているうちに気分が落ち着いてきた。いい暇つぶしだ。何もかもが、いい暇つぶしなのだ。


 野心なら、ないとは言い切れない。金が手に入るなら手を伸ばすし、宝石が手に入るなら手を伸ばす。その延長として、国が手に入るなら迷いなく手を伸ばすだろう。その程度。

 そんなことよりも、今楽しい方が良い。欲しいものは数あれど、何かを我慢して得るということが基本的にできない。それがバレンワートという男だった。


 船長室を出て、手下どもに「港だ。港へ行け。お前たちは水浴びをしろ」と指示する。手下どもは沸き立った。


 港へ着いたのは二日後のことだった。

 手下どもには、普段から『港ではいい子にしていろ』と言っている。騒ぎを起こすなら港から離れた村にしろと。手下はそれを忠実に守り、今のところバレンワートたちは港町において拒絶されてはいない。むしろ歓迎されている。誰より金を落とす客だからだ。

 バレンワートはエラという女を侍らせながら酒を呑んでいた。


「今夜は泊まるの、船長さん」と甘えた声で女が訊ねる。バレンワートは酒を煽りながら、どうもその気にならないと思った。元々それほど女に飢えていたわけではないが、暇つぶしとしてもこの女とする気にならない。

 だがエラを呼んだのはバレンワートだ。抱いてやらなければ女も気が済まないだろう。


 宿に移動し、灯りを消して女がバレンワートに跨る。

 ――――あ、ダメだこれは。

 バレンワートは女の肩を掴み、無理やり体勢を逆転させた。


「なぁに、船長さん」

「今日はその気にならん。また今度にしよう」

「やだわ、そんなこと言って。他の女のことを考えていたんでしょう」

「疲れただけだよハニー」

「お歳かしら?」

「意地悪言うなよ」


 バレンワートはエラにキスしたが、エラはすっかりおかんむりでそっぽを向いたままもう何も言わなかった。ベッドの上で上体を起こし、バレンワートは煙草を吸う。この女とはもう無理だな、とため息をついた。



 翌日、手下たちが子供を六人連れて来た。うち四人は泣くのを我慢していたが、二人きんきん甲高い声で泣き喚いていた。

 バレンワートは子供が泣くのを面白がったことはあっても、それを気にかけたことはない。それがどうしたことか、この時ばかりはひどく耳障りに感じたのだった。バレンワートは泣いている子供の頬を叩いた。手下がわっと笑いながら「船長、売りもんに手ぇ出しちゃあいけねえですよ」と愉快げに言う。


を船に乗せるのは我慢ならん。捨てておけ」

「そりゃあねえでしょう。俺らはこのガキども攫うのに骨を折ったんだ。金にしましょう船長」


 苛立ったバレンワートは子供の一人を海に放り投げ、「ガキの二の舞になりたくなかったら言うことを聞け」と怒鳴った。手下たちは今度こそ戸惑い、黙る。

 舌打ちをしながらその場を去ろうと踵を返したバレンワートの耳に、水しぶきが立つ音がした。

 振り向くと、男が海に飛び込んでいる。子供のところまで泳いでいき、抱いて帰ってきた。


 その男はバレンワートの船に乗っている、ギフトという名の男だった。一年ほど前、貨物船を襲った時に掠奪した船医だ。


 それを見たバレンワートはなぜだか少しほっとして、しかし男を睨みながら近づいた。

 船長に対して反抗を示す行為であることは明らかだ。鞭打ちさせなければ示しがつかない。

 そんな考えとは裏腹に、口が勝手に動く。


「お前は貴重な船医だ。今回ばかりは見逃すが、次はない」


 手下どもがざわついた。バレンワートは内心『うるさい』と苛立ちながら、今度こそその場を後にする。船に乗り込み、船長室に閉じこもった。




 ベッドの上で、バレンワートは考える。


 何かがおかしい。何が? 体調はいたって健康。航海に不安要素もない。

 ガキの甲高い泣き声が耐えられなかったのはなぜだ? そこまで繊細なタチじゃない。

 なのに苛つく。何もかもに苛ついている。


 船長室の戸が叩かれた。「俺は気分が悪いんだ、入ってきたら殺すぞ」と怒鳴る。しばらくして、戸を叩いた者が立ち去る足音が聞こえた。「クソっ」とベッドに横になる。


 いつの間に眠っていたのか、部屋が暗い。ランプに火をつけて、頭を掻きむしる。


 ドアを叩く音がした。バレンワートは昼間のことを思い出し、「……なんだ」と答えた。


「気分はいかがです?」


 耳を疑う。ギフトの声だ。昼間に戸を叩いたのもこいつか?

 バレンワートはベッドから降りて、ドアを開けた。ギフトが真面目そうな顔で立っている。それを上から下まで眺め「よぉ、色男。昼間のことがあってよく一人で俺の部屋に来たな。俺の手下にもあんたほどの度胸はあるまい。あんた実は海賊だったのか?」とからかった。


「昼間、気分が優れないと言っていた。船医として気にかかっただけです」

「仕事熱心なことだ。少し酒を呑みすぎただけさ。思えば昼間も酒のせいで、少しばかり羽目を外しすぎたな」

「それならいいのですが」


 それならいいのですが、と来たもんだ。バレンワートは鼻で笑って、「お優しいことだ」と肩をすくめる。もういいか? とドアを閉めようとすると、ギフトが静かに、だがしっかりした声色で「近頃のあなたはどうも調子がよくないように思えます」と言った。

「何?」

「なにか、気になることがおありですか?」

「……どうしてそう思う」

 簡単に否定することができず、そのように問う。ギフトは淡々と「今日のあなたは子供を海に投げたかったのではないと私は思います」と言った。答えにもなっていないその言い草に、バレンワートは眉を顰める。


「じゃあ何か? ガキを海に投げたのは俺じゃない俺ってことか?」

「いいえ。あの子を海に投げたのは確かにあなただが、あなたは本当にそうしたかったわけではないのだ。あなたは子供が泣くのに耐えられなかった。あなたは、本当は子供を海に投げるのではなく、子供が泣くのを宥めたかったのだ」


 バレンワートは腕を組み、自分の背丈と同じくらいの大男の顔を呆れて見つめた。「馬鹿も休み休み言え。お医者の先生もこんな環境じゃ、頭をやられちまうと見える。早く寝な」と言って、足でドアを閉じる。

 ドアの向こう側でギフトが「何か悩みがあるなら、いつでも相談を。私は医者ですので」と言うのが聞こえた。


 またベッドに寝転がったバレンワートは、先ほどとはまた違う心持ちで天井を見る。あの医者は頭がいかれている。突然船を襲われ、海賊船に乗せられて一年。その船長を恨みこそすれ心配とは。

 バレンワートは可笑しくなって笑った。不思議と、悪い気はしなかった。




 三か月が経ったころ、バレンワートたちは新たな港に船を泊めていた。

 いつものように酒場で女を引っかけ、宿に連れ込む。


 しかしバレンワートは女を抱けなかった。


 夏の暑さとは別の、嫌な汗が背中を伝う。怪訝そうにバレンワートを見た女が、「不能それならどうして誘ってきたの?」と鼻で笑った。バレンワートは女を殴り殺して、港を出た。




 それから幾度か女を買おうと考えたこともあったが、二度の失敗がバレンワートを怖気づかせた。また女に笑われることを恐れ、また、何よりそれが手下たちに露呈することを恐れた。

 そんな折、ギフトがまた声をかけてきた。調子はどうかと、ただそれだけだった。


 手下にバレれば殺すよりほかにないと思っていたようなことを、バレンワートはギフトを相手に喋ってしまっていた。酒の力だったかもしれない、あるいはギフトが元々は、海賊でもバレンワートの手下でもなかったからかもしれない。医者としての所見を期待したからかもしれない。ともかく、バレンワートは事を茶化しながらもギフトには自身の二度の失敗を話した。

 話を聞いたギフトは、こう言った。

「人間は強いストレスに晒されると一時的にそういうことがある」と。


「強いストレス、だって?」

「ああ。思うにあなたは……」


 ギフトは一旦言葉を区切り、バレンワートを見た。

「自分でも無意識のうちに、この野蛮な暮らしに嫌気がさしているのでは?」

「野蛮な暮らし? この、海の上の暮らしのことか? 俺は十三で海に出て、もう二十年も同じことをやっているんだぞ」

「ええ。だからこそ、積み重なったストレスが今身体に悪さをしているのかもしれません。私の患者にはそういう方もたくさんおられました」

 到底納得のいく仮説ではなかったが、バレンワートは縋るように「治るのか」と尋ねた。ギフトは頷き、「ストレスと適切な距離を取ればいずれ治るでしょう」と言う。その言葉に満足し、バレンワートはこの事を他言無用とした。




 野蛮な暮らしに嫌気がさしている、などと納得したわけではないが、その日から何かあるたびにその言葉が頭をよぎるようになった。手下どもの下品な笑い声に眉をひそめ、静かにしろと怒鳴るたび、こんな暮らしのせいでと考える羽目になった。

 そのたび、バレンワートはギフトに怒りを吐き出した。ギフトは神妙な顔でそれを聞き、バレンワートを宥めた。


「やっぱりあんたはそこらの荒くれものとは違う。お医者ってのは頭がよくなけりゃなれないんだろう? あんたからは知性ってのを感じるよ。話していて楽しいしな」

「あなたもだ。あなたも、他とは違う。本来のあなたは思慮深く、とても頭のいい人だ」


 やがてバレンワートはギフトを“先生”と呼び、側につかせた。船内ではそれを不満に思う人間も多くいたが、それも様々な形で黙らせた。

「乱暴はよしなさい。彼らは君の子同然だ。親をとられては当たり前に寂しかろう」とギフトは言う。この男はそんなふざけたことを大真面目な顔で言っている、とバレンワートは笑ったが、同時に好感を持ってもいた。ギフトの言葉はくすぐったくも心地よかった。


 バレンワートはギフトと毎晩のように語り合うようになり、ギフトは様々な話を聞かせた。医者として過去に出会った患者のことであったり、嚙み砕いた聖書の話であったり、とにかくそれはバレンワートにとって興味深く、その時間が何より楽しかった。


 ある夜「もう帰るのか、先生。もっと話して行けよ」とギフトの腕を掴んだ時、バレンワートはついに自らに起こった異変を正確に認識することができた。


 この男をどうにかしてしまいたい、この男にどうにかされてしまいたい、この男が欲しい。

 少し前から、ギフトと話しているときに感じる甘く全身に広がるような痺れ。

 ある日の魔女の言葉を思い出し、そうしてようやく――――だった。


 女になったのだ、自分は。肉体はそのままに。


 バレンワートはすぐに魔女を探したが、魔女の住処は深い海の底にある。会おうと思って会えるものでもなければ、探せば探すほど滑稽な自分を嗤われているように思えて嫌になった。

 とにかく全ては魔女の呪いのせいなのだと思えばましになるかと思ったが、依然として些細なことに苛立つのをやめられず、手下に当たってばかりいた。


 魔女の呪いがなんだ。幸い、体の方は何ともない。女を抱けないくらいで、隠し通せないものでもない。そうだ、何も問題などないのだ。

 そう言い聞かせても、眼前にいる無神経な手下たちの笑い声に苛立ち、男どもの臭いに辟易し、人々から奪い脅して怯える顔を見ても以前ほど楽しくない。それが呪いのせいであるかはわからないが、あれほど刹那の享楽に溺れていたというのに、酒の味すら変わった気がした。


 そんな中、ギフトだけが優しかった。


「女になったんだ」と、冗談めかして言ったことがある。ギフトは真面目腐った顔で、「男でも女でも関係ありません。あなたはあなたです」と言った。いつだってギフトは、バレンワートの欲しい言葉をくれた。


「キスしてくれ」

「私が、船長にですか?」

「女になったと言ったろ? 口淋しくてかなわん。どうして女ってのはあんなにキスをせがむのかと思っていたが、ようやくわかったよ。このままじゃ眠れそうにない。患者に必要な薬を出すのは医者の仕事だろ、先生」


 ギフトは珍しく笑って、バレンワートの手を取り指先にキスを落とす。

 その時に感じた多幸感の凄まじきこと。思えば今まで、男としても恋などしたことのない人生だった。

 この男を跪かせたいと思った。あるいは、この男に犯されたいと願った。それが魔女の呪いのせいであることは明白だったが、確かにそこにある本物の感情であったのが厄介だった。


 バレンワートはギフトの襟を掴み、強引に口づけをせがんだ。ギフトは今度こそ驚いて、それを拒んだ。


「どうして出来ない? 俺が女でないからか」

「あなたがたとえ女性であっても、誰彼ともわずそのようなことをしてはなりません」

「お前だからだと言ったら?」

「私は……」


 失礼、と言ってギフトは部屋を出ていく。

 惨めな思いがした。女に嗤われた時より、強く惨めに思った。

 自分が、体まで女であったなら、ギフトは口づけを許しただろうか。体を許しただろうか。だからといって元に戻ることを諦めたわけではないが、自分はたとえまた女を抱けるようになったとしてもあの男に執着するだろうと感じた。

 そこに宝石があれば、手を伸ばすのが海賊だ。


 その日からギフトはバレンワートを避けるようになったが、バレンワートが殊勝な顔をして「あの日はすまなかった、先生。俺も随分気が滅入っていたらしい。またあんたと話がしたい」と言えばあの優しい男はまた部屋に来た。


 バレンワートは部屋に来たギフトをベッドの上に押し倒し、その手首を縛った。バレンワートは暴力で下剋上を為した男だ。魔女の呪いはその力にまでは影響を及ぼさなかった。ギフトは最初のうち抵抗の色を見せたが、途中からは諦めてどこか遠くを見ていた。

 バレンワートはギフトの上に跨り、いつも女にされるようなことを全て行った。ギフトの胸に、バレンワートの汗が落ちる。真夏の夜、揺れる船の上。灯りはランプだけだった。

 ふと、ギフトの胸元に光るものを見る。そっと手に取れば、それは首から提げられたロケットペンダントだった。

「恋人か?」

 ロケットを開き、中に女の姿を認める。ギフトは喘ぎながら、「故郷に残してきた妹だ」と答えた。そうか、とバレンワートはそれを閉じる。

 ギフトは縛られたまま身をよじり快楽から逃れようとしていたが、最後にはバレンワートのなかで果てた。


「気持ちよかったか?」と尋ねても、ギフトはきつく唇を噛んだまま答えない。

 縛っていた布を解いてやると、ギフトは片手で目を覆った。そんなギフトの胸に縋りながら、バレンワートは「見ろよ先生」と自身のものをギフトに握らせた。

「俺のはこんな時でも勃ちやしない。もう使い物にならないんだ。なあ、こんなことがバレたら船長でも船から放り投げられるかもな。女が船に乗り込んでいたら不吉だってさ」

 それからギフトに口づけをせがむ。「頼むよ先生。あんたしかいないんだ。お願いだから、嫌いにならないで」と言えば、ギフトはただ黙ってそれを受け入れた。




 バレンワートは見違えるほど穏やかになり、手下たちは『船長の機嫌がようやく直ったようだ』と噂した。

 とはいえバレンワートは内心穏やかでなかった。たんに、手下たちに興味が向かなくなっただけだ。むしろ今までより腹立たしく思っていたと言っていい。


 ギフトのロケットに入っていた女の写真。それを見るギフトの視線は、妹を見るようなものではなかった。


 ベッドの上で、「先生なら、恋人の一人くらいいただろう?」と尋ねる。ギフトは答えない。

「なあ、俺を安心させてくれ」

「どうしろと?」

「名前を呼んでくれ」

 ギフトは押し黙る。バレンワートがギフトの肩に噛みつくと、ギフトは小さく呻いた。


 事後、「たまには二人きりで食事でもどうだ」と誘ってみる。意外なことにギフトはそれを了承した。

「そうか。そりゃあよかった。明日の晩、食事は運ばせる。手ぶらで来いよ、先生」

「常々考えていたことでした。私たちはもっとお互いのことを知るべきだ」

「あんたは本当にウブだな。悪かったよ、なし崩し的にこんなことになって」

 ギフトは肩をすくめ、「もう諦めました」と言う。バレンワートは頬杖をついて笑った。




 貴重な肉を血の滴るようなステーキにして、バレンワートはそれをナイフで切り分けた。

「なあ先生、知ってるか。海賊の中には食うに困って自分の妻だか夫を殺して食ったのもいるんだとよ」

「食事中に聞きたくない話ですね」

「安心しろよ、この肉は昨日市場で仕入れたばかりの新鮮な獣の肉だ」

「知っています。私も船を降りて同行したからね」

 肉を口に運び、「しかし愛ってのはそんなものなのかね」とバレンワートは呟く。

「飢えれば自分のつがいさえ食うのが、人間らしい愛と言えるか? 獣だってそんなことはすまい」

「さあ……その人たちのことを知らないから何とも言えませんが」

「愛しているなら一緒に死ぬべきじゃないかね。俺はそう思う」

「あなたはロマンチストだ」

 ふふ、とバレンワートは顎に手を当てながらギフトのことを見つめた。ギフトは生真面目そうに肉を口に運んでいる。


「先生、」

「なんでしょうか」

痘痕あばたえくぼってやつかな。あんたのそのつれない態度も可愛く思えてきた」

「光栄ですね」

「あの女は誰なんだ?」


 祈るように両手を組んだギフトが、その上に顎を乗せてバレンワートを見る。

「そんなに、知りたいかい?」

「知りたい。教えてくれ、先生」

「それで全てが終わるのだとしてもですか」

「それを決めるのは俺だ」

 懐中時計の動く音が聞こえた。

 ギフトはため息をつきながら瞬きし、「恋人ですよ。お察しの通り、ね」と話す。


「ワインはどうでしょう。手ぶらでと言ってくれたが悪いからね。あなたに似合う華やかな香りのものを選んだんだ」


 ギフトはグラスを二つ出し、なみなみと赤い液体を注いだ。どうぞ、とバレンワートに差し出す。

 沈黙。

 バレンワートはギフトの表情、指先の震えから緊張を読み取っていた。

 そしてバレンワートは黙ってグラスを受け取り、すぐにギフトのグラスと取り換える。ギフトはその様子を興味深そうに眺めた後で、なぜか見たこともないほど愉快げに笑った。


「あなたは正しいな。やはりそこまでの信頼関係は築けなかったか。残念だ」

「なぜ俺に毒を盛る? 俺を殺せば故郷に帰れるとでも?」

「今さら故郷に帰ったとて」


 そう自嘲気味に言って、ギフトはためらいなくグラスの中身を一気に煽った。

 バレンワートは、その液体がギフトの喉を通っていくのを黙って見ていた。バレンワートの見立て通りならそのグラスに入った葡萄酒には毒が入っているはずだが、ギフトに躊躇いなど微塵もなかった。


「彼女はあの日、僕と同じ船に乗っていました」


 ギフトは深呼吸し、目を細める。

 “あの日、同じ船に乗っていた”というのは、つまりギフトを貨物船から掠奪した日、ギフトの恋人もその船に乗っていたということだろう。となれば、その女がどうなったかなど明らかなことだった。

 あの船のことはよく覚えている。いつもなら生き残りを売り飛ばして金にするところだったが、あの日バレンワートは掠奪した医者以外の全員を殺して海に捨てたのだ。船員がみな信心深く、どうも鼻についたのだった。

「……俺を恨んでいるか?」

「ああ。世界中の誰よりも」

 それを聞いたバレンワートはテーブルに肘をつき、にっこり笑う。「ほんとうに?」と小首をかしげてギフトを見た。


「それって、愛の告白みたいだ」


 ギフトは呆れたような、諦めたような、憐れみのような、羨望のような、何とも言えない表情でバレンワートを見据える。

 そしてワインよりも赤い血を吐いて、テーブルに突っ伏した。


 バレンワートは医者の髪を撫でる。

「なぁんだ、先生。早く言ってくれりゃよかったのに。俺だって、この世にいない人間に妬くほどは嫉妬深くないぜ?」

 返答はない。倒れたグラスが転がって落ちる音がした。


 頬杖をつき、バレンワートはじっとギフトを見る。首筋に手を当てると、脈が弱まっていくのを感じられた。

 少しずつ体温が下がっていき、バレンワートとは違う“もの”になっていく。

 懐中時計が一回りする時間、そのままでいた。

 先生、と呼びかけてみる。やはり、返答はない。


 心底つまらない気がして、長いため息をついた。仕方なく、彼の最初で最後のプレゼントとなったワインを口に運ぶこととする。

 ワインは確かに華やかな香りで、それがバレンワートのために選ばれたと言われれば悪い気はしない。


 一気に飲み干し、グラスを置いた。

 バレンワートは驚きで、少しの間ぼうっとしていた。


 驚きながらも、どこか腑に落ちた。思わず笑いだす。こんなに愉快なのは、生まれて初めてだ。


 このグラスにも、毒が仕込まれていた。


 思い出したのは、バレンワートがグラスを取り換えた時のギフトの笑い。

 ああ、そうだな先生。こんなにおかしなことってないよな。俺は今この瞬間まで、考えもしなかったよ。あんたが最初から俺と一緒に死ぬ気だったなんて。


 バレンワートはうっとりして、毒と酔いが回る感覚を味わう。


「こんなのってやっぱり愛だ」

 胃が浮くような感覚で吐き出したものが血だった時、バレンワートは歓喜した。

「なあ、先生。俺、生まれて初めてこんなにも人を愛したよ。あんたもそうだろ? だって恋人がいる天国じゃなくて、俺と同じ地獄を選んでくれた」

 テーブルの向こう側で突っ伏したままのギフトの手を握る。


 やがて波の音が止み、完全な沈黙が訪れた。

 ランプの火がふっと消え、月明かりに照らされた船の帆に、海の魔女の影が浮かんだ。


 魔女は船長室に降り立ち、テーブルに突っ伏す二つの影を見つめた。


「海の底まで持って行く気にもならんわ」とバレンワートの幸せそうな横顔を見おろす。「この、嫉妬狂いめ」と魔女は呆れて目を細めてから、姿を消した。

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