第6話
なにかが顔に触れたのが鬱陶しくて、意識が急に浮上した。
「あ、目ぇ覚めたん?」
「なつき・・・?」
成長した夏樹の姿を見るなんて、なんていい夢だろうか。そう納得しかけて、一気に灰寺の事や、あわやのタイミングで夏樹が助けてくれた怒涛の展開を思い出す。
あれでも、なんで寝てたんだっけ・・・。なんか大泣きして、そのまま寝落ちとかしてしまった感じだろうか。
「ごめん、寝ちゃった」
「ええよええよ。そらあんなひどい目に合ったら疲れもするしな。でもあんた、とりあえずそのドロッドロの顔洗ってきたら?」
「・・・・・なんて?」
「すんません。なんでもありません」
寝起きから不用意なことこの上ない発言を聞かされはしたものの、顔がどろどろな自覚はある。ベッドの横に胡坐をかいて座る夏樹を押しのけて、のそのそと洗面所へ行ってメイクを落とす。というかもう、このままさっぱりしたい。洗面所から顔を出し、夏樹に声をかける。
「ねー、シャワー浴びて来てもいい?」
「おう。パンツ忘れんようにな」
「うっさいわ」
シャワー浴びてくるって言ってるのに、色気もへったくれもない空気感が酷く心地いい。心地いいけど、再会して即この空気感はいったい何なんだろう。とんでもない安心感があるけれど、なんとなく腑に落ちないというか、変な気分だ。
「ちょっとあっち向いててー」と断って着替えを用意し、そのまま洗面所へ向かう。
洗濯機と独立洗面台のある洗面所はなかなか手狭だ。それでも、バストイレ別で、独立洗面台があるというのは非常にポイントが高い部分なのだ。狭いぐらいで文句は言えない。
洗面所に鍵は付いていないけれど、まあ別に、覗かれる事もないだろうし、よしんば入って来てそういう事になるなら、それはそれで願ったりかなったりというかなんというか・・・。いや嘘ごめん。そんなのされた心臓が死んじゃいそうだから、順番は守りたいかもしれない。
服を脱ぎ、洗面台に映る私の顔は確かにマスカラが落ちてパンダだわ、アイラインなど跡形もないわ、眉毛もなんか薄まって左右非対称だわで、酷いことになっていた。なるほど、確かにドロドロである。が、やっぱり人に言われたくはない。さっさと落とすべく、浴室へ入った。
上から下までさっぱりしても、当然ながら夏樹が洗面所に入ってくる気配すらしない。
まだ夏樹と顔を合わせるのが少ししんどくて、なんとなく背中に熱いシャワーを浴びながら、ぼんやりとこの状況どうするのが正解なんだろう、と考える。
泣いていたせいか、灰寺がストーカーって分かったせいか、寝る前の会話の内容がちょっと曖昧だった。
なんだっけ・・・夏樹が交通事故で死んで、その時にたまに餌をやってたボス猫も一緒に死んだから、なんか混ざってあの、なんだ・・・猫人間?妖怪?になったみたいな話・・・をした。したな。うん。なんかそれは思い出した。
その後の記憶がブツっと途切れているから、多分その辺りで寝落ちしたんだろう。まあ、相手が夏樹だし緊張が切れて気が緩んだんだろうな。
夏樹ってこの辺に住んでるのかな・・・。
あの時、部屋から彼氏面して出て来てくれて本当に助かったけど・・・、いや待て。そもそもなんで鍵かけて出て行った部屋の中にいたんだ、あいつ。
え、普通に不法侵入では?ストーカーも大概だけど、不法侵入もなかなかだぞ。私だからいいけど、訴えられるやつだぞそれ。いやそもそも死人を訴えるとか無理か・・・。あれ、死んだんだよね?いや、死んだって本人がはっきり言ってたもんな。本人が死んだって言って本当に死んでるパターンは初めてだ。
混乱して暴走しかける思考を、大きく息を吐きだして抑えた。落ち着け。とりあえず、現実問題、夏樹は家にいる。で、灰寺も反応してたんだから、恐らくは普通に他の人にも見える。触れるし、声も聞こえる。体温もある。
でも戸籍はない、はずだ。というかあったらまずいんじゃないだろうか、死亡届が出されてるはずだし。となると普通に結婚は無理だな。・・・いや、そもそも恋人ですらないのに何考えてんだろ・・・馬鹿すぎるな、私。
私の片想い歴は長い。なんせ夏樹が小学5年生で越して来てからずっとだもの。高校生の間は恋人ではないけれど、きっとただの友だちじゃなかったし、お互いがお互いに気がある事に気づいていた。自惚れでなければ、だけど。少なくとも私にとって、夏樹との距離感は特別なものだった。彼にしか許さない距離があり、そしてそれは夏樹も一緒だった。
で、やつが死んで、私はそれからずっと、死人に片想いだ。
まあ長い。ほんとに・・・馬鹿みたいに長い事、結ばれるはずもない抱き続けた。
だから、我儘を言うつもりはない。
こうして隣にいてくれて、触れて、話せるなんて、もうそれだけでどうしようもなく奇跡だ。それだけでいい。恋人か、友だちか、内縁の夫婦か・・・関係性の名称なんて、もはやなんだっていい。夏樹がここにいられる状態で、方法で、私の側にいてくれるなら、それで十分だ。
「ほんと・・・望み過ぎたら
ぽつりと口に出した、それが総てだった。
悩んでも仕方がない。なるようにしかならないだろう。
そう結論が出たら、少し気が楽になった。
何はともあれ、夏樹には、今住んでるところがあるのかを聞くところから始めよう。
「あがったー」
「おーう。なあごめん、缶チューハイ貰ったわ」
「いいよー」
「あとポテチ開けた」
洗面所から上がってみれば、夏樹はラグの上にごろ寝して、テレビで適当にチャンネルを回しながら行儀悪くポテチを摘まんでいた。宣言通り、ローテーブルの上には開いた缶チューハイが置かれている。
「あんたくつろぎ過ぎじゃない?」
我が物顔というのがこれ以上似合う状態もなかなかないだろう。
そういや紅茶入れてくれる時も、キッチンの諸々の位置を私より把握してたよな。なんなんだ。妖怪パワーなのか。
なにそれ、滅茶苦茶アホっぽい。
「くつろがせてもろてますぅ」
「苛つくわぁ・・・」
わざとらしいイントネーションを付けて寛いでるアピールをしてきやがる。なんなんだ全く。あまりに飄々とした姿を見ていると、真面目に考えるのが馬鹿らしくなってくる。
色んな感情をぶつけてしまいたい。
好きだとか。
ふざけんなとか。
愛してるとか。
苦しいとか。
全部の疑問をぶちまけてしまいたい。
どうして連絡くれなかったの?とか。
いつからこうやって触れ合える状態だったの?とか。
なんで助けてくれたの?とか。
私の事好き?・・・とか。
泣き叫びたいような気持と、怒鳴り散らしたい気持ちと、笑い転げたい気持ちがずっと胸の中で嵐を起こしていて落ち着かない。
この嵐を、吐き出してしまったら、このだらりと緩んだ、夏樹が部屋にいるという、あり得ないのにひどく落ち着く時間は終わってしまうのだろう。それはすごく、嫌だった。
「夏樹」
「んー?」
「だし巻きとか食べる?」
冷蔵庫を開けて中身を確認しながら、私が声をかけると、ひょこっと彼が上体を起こしたのが、ローテーブル越しに見えた。
彼の雰囲気にのまれて、聞きたいことも聞けない私は本当に臆病者で、ズルい奴で、嫌になる。
「え、食べる。や、でもええの?疲れてるやろ?無理しんときや」
「うーん、お腹空いちゃったんだよね、私が」
いい年だし、多少の自炊はする。それこそ、時短レシピとか、10分ご飯とか、ちょっと探せばレシピもやり方も動画付きで説明してくれる世の中なのだ。やる気さえあれば、まあ自分が食べる分くらいは作れる。ひとり暮らしも長ければ、その辺りは憶えてくるものだ。調味料と調理器具さえ揃えれば、自炊するだけで随分節約になるしね。
家に帰ってあんな大変な目に合うまでは、思いっ切りジャンクにする予定だったのに、だし巻きなんていう案が出てくるあたり、私もなかなか女々しい。そりゃ好きな人が目の前にいたら、しれっと好物を作れますアピールとかしたくなってしまうのが複雑な乙女心なのだ。例え、ただ隣にいてくれたらいいと割り切ったとしても、それは変わらない。
「ねー、夏樹ー?」
縦長の2口コンロの奥側で片手鍋にお湯を沸かし、手前側でだし巻き卵を巻きながら声をかけると、気のなさそうな「んー?」という生返事が返ってくる。きっと彼の視線はテレビに向かったままだろう。だから私も、頑なにだし巻き卵から視線を逸らさない。
今直近で気になる事と言えば、夏樹が泊まっていくかどうかというところだ。さっき時計を見たら21時を回っていた。終電まではまだ時間があるけれど――――そもそも彼には終電とか関係あるんだろうか。それにしても、どこまで聞いていいんだろうか。そこも気になる。素直に聞きたいことを全部聞けるほど、私の胆力はない。
「やっぱなんでもなーい」
「なんやねん」
何を聞けばいいのか分からなくなり、質問自体をなかったことにした。
彼の文句をスルーして、冷蔵庫を開ける。何かお味噌汁の具が欲しい。3パック纏め売りのお豆腐がひとつ残っていた。賞味期限が昨日だったけど、まあ1日くらいでは味も変わるまい。出す相手も夏樹だし。
だし巻きを均等に切り分け、ちゃちゃっとお味噌汁も作って、テーブルに並べる。ご飯もよそった。私の分以外のお茶碗なんてないので、彼の分は小さめのどんぶりだ。
「やー、なんか申し訳ないわぁ。めっちゃうまそう」
「でしょ。まあついでだし、気にしないで。いただきます」
「いただきます」
正方形の2人掛けのテーブル。その対面に彼が座り、当たり前のように手を合わせて一緒に食べる。
私は家に人を呼ばない。
母と、小学校の頃からの友人だけ、ほんの数回来たことがあるが、それだけだ。私が夏樹を今も想っているのを知らない、或いは知っているけれどそれを頭がおかしいと切り捨てる人間を、自分のテリトリーになど入れたくはなかったからだ。だからセフレだろうが、それ以外の友人だろうが、呼ぶことはなかった。
だからこうして飾り気もない食事を自宅で、人と一緒に食べるというのは、今までしたことのない事で、それが嬉しくて、そしてなんでか、妙に切なかった。自分でもなんで切ないんだか分からない。もう生理の時にインフルエンザ重なったくらいの酷いメンタル状況な自覚はあった。
目の前で「うんまぁ!おま、旨いやんこれ。なに、意外すぎんねんけど!」とか失礼なのに嬉しい言葉を掛けてくるやつを見ていると、自然に笑ってしまう。そんな自分に、阿保くさい位に夏樹が好きだなんだなぁとしみじみ理解してしまった。随分爛れた生活を送って来ていた割に、妙に純真な恋心みたいなのも残っていたんだななんて本当に私って何なんだろう。
感情が折り紙のようならいいのにと思う。折って畳んで、好きな形にできて、いらなくなったらぐしゃぐしゃに丸めて、燃えるゴミの日に捨ててしまえる、そんな自在な物ならどれだけよかっただろう。
零れ落ちそうな「好き」をお味噌汁で流し込む。
「ねえ夏樹、一緒に住む?」
そんな提案、していい訳もないのに。
ここは独身者用の部屋だ。別に短期間人を連れ込んだところで、何を言われるでもないけれど、住むなら話は変わって来るだろう。分かってる。でもなんとなく、あんまり長く一緒にいられる気がしないのだ。それは勘というか、こう、空気感と言えばいいだろうか。よく分からないけれど、何故かそれは私の中で確信めいていた。
彼といる時間を、どうしようもなく儚く感じるせいだろうか。
咽び泣いても足りないくらいに嬉しいのに、でも、喜びに浸る事ができない。
幻のような、夢のような、あやふやで確信を持てないのに、永遠に続いたらいいのにと思えるような、そんな空間。
それでも――――、ほんの1秒でもいいから長く、あなたと一緒にいたい。
きっとこれは自傷行為だ。
塞がる事のなかった初恋という膿んだ傷口に、塩酸をぶちまけるような行為だ。
でも構わない。
どちらにしろ、夏樹が消えたらもう、流石に臆病な私でも死ねそうだ。
死んだように、それでも欲に塗れて生きて来たけれど。でも、こんな素敵な奇跡を体験したら、もう何にも怖くない。終わっても、何にも悔いがない。
本来一緒に住むのなら、二人居住用のところへ引っ越すべきなのだろうけれど、どっちにしたって妖怪の彼には何か身分を証明できるものなんかない。つまりは収入を証明するモノだってないだろう。ふたり入居可のところへ引っ越すにしたって、お金はかかるわけで、どうせ最期の楽しい時間なら、もっと違う事にお金を使いたい。
消える時は、全部綺麗に整理して消えるから。だから、今だけ・・・社会人としてどうかって言われそうな我儘を許してほしい。
ちらりとこちらを見上げるながら、夏樹はずずっとお味噌汁を啜った。
「ええよ、別に。布団だけ用意して欲しいとこやけど」
「私マットレス2重に敷いてるから、薄い方貸してあげる」
「なんで厚い方じゃないねん」
「そっちは私が使いたいから」
「はー、ほんっま横暴やわ。呆れて物も言われへん」
寒くなったら毛布と掛布団くらい買ってあげる、という言葉は、言いかけたけど、やっぱりやめた。きっとそんなに長くはいない気がして。代わりに「言ってるじゃん」という憎まれ口だけ、どうにか吐き出すことに成功した。
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