第5話



嗅ぎなれない彼の匂いに包まれ、閉じこもった場所で夏樹の鼓動を聞くというのは、至上の贅沢だった。


ぐずぐずと泣く私は、あまりに子ども染みているなと自分で分かっている。

色んな感情が溢れて収まらない。彼に会えて嬉しいとか、今までどこにいたんだとか、もっと早く会いに来いよとか、あの時一緒に死にたかったとか、私の方こそ夏樹を助けたかったのにとか、でもありがとうとか・・・。もう本当に、一生解消されるはずのなかった、するつもりもなかった喜怒哀楽のごちゃ混ぜになった感情が、無秩序に溢れかえっていて、自分でも、どうすることもできなかった。


しゃくりあげるわ、目元は擦るわで、元々夕方で崩れかかっていたメイクはきっともう酷いことになっているだろう。あんまり見られたくないな。夏樹の前でなら、いっそのこと崩れたメイクでいるより、すっぴんでいる方が恥ずかしくない。なんせ、すっぴんなら子どもの頃から見られているので今更感しかない。


彼に問いただしたい事なんてごまんとあるのだけれど、存外、つらつらと頭の中に流れてくる思考は、そんなくだらない物ばかりだった。


「・・・ごめんて」


何をとは言わないまま、彼は酷く気まずげに謝った。彼が何に対しているのか分からなかったし、もしかしたら彼自身、何に謝ってるんだか分かってなかったかもしれない。

夏樹は昔から、私が泣いてしまうと自分の悪い所を見つけて謝って来るいい奴だった。別に私だって、それにかこつけて何でもかんでも泣いて解決なんてあくどい真似はしなかったけれど、夏樹が謝ってくると、どうにも意固地になり続けることができなくて、大抵は「ごめん、私も・・・」となるのが常だった。


「いやだ。無理」


そう、いつもならそうだ。

でも今回はそんなの無理だ。だって死んだのだこの馬鹿野郎は。死んで、そのまま私を放置してきたのだ。許せるわけがない。いや、今の今まで全くそんな事は思っていなかったのだけれど、こうして生きて姿を現したのなら話は別だ。


「っ!そ、そんな事言わんといてよ。こっちにも色々事情があんねん」


私がいつもとは違う返答をしたせいだろう。狼狽えた様子の夏樹はごにょごにょと弁明しようとしている。それでも、私が慰めろと怒ったからか、ちゃんと背中を摩ってくれる辺り、やっぱりいい奴だ。そう言うところが、本当に好き。


「・・・ねえ、これ夢?」


彼の言い訳染みた声を完全に無視する形で、ぼそりと問いかける。こんな風にしか尋ねることができなかった。


束の間の沈黙。部屋の中が静まり返っているという状態は、今までの私にとっては当たり前の事だったはずなのに、今日はやけに耳に痛い。


堪らなく怖い。


夢だと言われるのは、勿論怖い。だって夢なら、今目の前にいる夏樹は、この体温は、鼓動は、全部嘘って事だ。


でもこれが現実だと言われても怖い。だって、人でなくなったであろう彼と、これからどうしていったらいいか分からない。


少し冷静になって来た頭が、余計な事をつらつらと考え出してしまうのだ。猫耳が生えた成人男性なんて、見つかったら実験施設とかに入れられちゃうんじゃないかとか、雑なSF映画みたいな事を考えてしまう。


私は、彼とまた離れなければならなくなるのが嫌だ。本当にただ、ただそれだけだった。一緒にいられるなら、夢だろうが現実だろうが、正直どちらでもよかった。この温もりを手放すなんてもう無理だ。もう、絶対に無理だ。


ぎゅっと縋っていた、彼の背中側の作務衣を握りしめる。人ではない彼は、瞬いたらすり抜けて消えてしまうじゃないかなんて、急に不安になったのだ。そんなの耐えられない。


「夢ちゃうよ。幻覚でもない」


大きく涙に湿った息をつく。嗚呼、私今自分にすら嘘をついていた。夢でも構わないなんて、どうしようもない嘘。絶対に夢じゃなくてよかった。こうして触れている彼は現実なのだ。肉も血も骨もある彼の体は本物なのだ。


「・・・何があったかって・・・聞いてもいいの?」

「ええよ。もう姿見せちゃったし。嘘みたいな話しかできひんけどな」


夏樹の鎖骨辺りにくっ付けた額から、笑った振動が伝わってくる。


その酷く生々しい震えとか、私の背中に回った筋肉質な腕の重さとか。その感触が嬉しくて、苦しい。


名前も顔も覚えていないような他人と肌を重ねた感触を思い出していた。実際の夏樹の感触と、セフレマネキン相手に妄想した感触は、まるで別物だった。


私って、何して生きて来たんだろうな・・・。今までだって事後は吐きたくなる程虚しかったし、結局こっちだってオナホ代わりにされてるだけな事はよく分かっていて、それに染みるような惨めさを味わってはいたのだけれど。でもまるで性的でないこの、慰めるだけの抱擁だけで、こんなにも違う。まがい物にすらなっていなかったという事実を叩きつけられる。


それに妙な罪悪感が酷い。夏樹は死んでいたという認識だし、そもそも私たちは付き合っていたわけでもないけれど、長年の恋人をひどく裏切っていたような、そんな罪悪感がみぞおちに泥のように溜まっていく。


その欠片も生産性のない、馬鹿々々しい思考を振り払いたくて、私は質問を重ねた。


「話したら、消えたりしない?」

「あほか。消えるんなら話されへんって言うわ」


出会いがしらから今まで、あまりにあっけらかんとし過ぎた彼に「なんでこいつ、感動の再会のはずなのにこんな軽いんだろう」と腹が立ってくる。でも、まだ涙が全然止まらなくて、何なら鼻水も垂れてくるしで、とても顔を上げられる状態じゃない。


「ティッシュ取って」と涙にただれた声で告げれば、彼は何も言わずにテーブルの上にあるティッシュを箱のまま取って渡してくれた。

遠慮なく鼻をかみ、ちょっとだけ顔を上げてゴミ箱へ捨て、そしてまた彼の鎖骨の辺りに顔を埋める。「おい」なんて言うくせに、引き剝がされることも、拒否されることもなかった。それどころか「・・・しゃーなしやでほんま」なんて悪態なんだかいい訳なんだか分からないぼやきを挟みつつ、再度彼は私の背中に手を回して緩く緩く抱きしめてくれた。


涙が止まらないのに、唇の端が笑みを作ってしまう。でも痛いのだ。苦しいのだ。どんな顔したら正解なんだろう。それすら分からない。


その苛立ちをぶつけるように、私は不機嫌そうな声を絞り出した。


「で?」

「おうおう。えらいドスが効いてますやん。そうカッカしなさんなごめんなさい」


調子に乗っているので背中の肉を抓るとすぐに謝って来る。懐かしいやり取りは嫌いじゃないけれど、さっさと話しを進めて欲しい。


「まあなんつーかな。ほら、俺轢かれて死んだやろ。そん時さ、たまたま野良猫も一緒に死んだんよ。覚えてる?近くの公園におった茶トラのボス猫。たまに鰹節とかあげてた」

「・・・たしかに、あの事故の後見なくなったかも」

「やろね。まあ、そんで・・・あー・・・うん、なんかこう、ごっちゃになってな。ごちゃっとなって・・・んで・・・こうなった訳なんよ」

「・・・・・は?」


思わず顔を上げる。


目が合った夏樹は、妙に爽やかな笑顔でこちらを見下ろしていた。が、猫耳をピコピコと落ち着きなく震わせている。誤魔化してるのがわかりやすすぎるだろ。


何もかも説明が足りない。「野良猫と一緒に死んだから、猫耳生えて生きています」にはならないでしょ。だって普通にお葬式したし、あなたこんがり焼かれて骨になってたよ。骨壺に入れたもの。どういう事よ。


じとりと睨み上げるけれど、彼の笑顔は崩れない。なるほど。その笑顔は知っている。意志を曲げるつもりがない時のアレだ。つまり今現在は絶対に言う気がないって事だろう。ならいい。言わないなら言わないで、問い詰めたいことはいっぱいあるのだ。


「夏樹はずっとさ、この、なに。猫人間?になって存在してたって事でいいの?」

「おー・・・まあ、せやな」

「じゃあ、実はいつでもこうやって出てこられたって事?」

「いや・・・その・・・ええっと・・・出て、来られなくはなかったんだけれども・・・」

「できたの?できなかったの?」

「・・・・・できました」


その回答に目の前が真っ赤に染まるような怒りを覚えた。怒髪天を衝く、とはきっとこの事だろう。ぐわっと頭に血が上って、もはや何も考えず、私は怒鳴っていた。


「ならなんでっ!!」


あまり大きな声を出すという事がないせいだろうか。私の怒鳴り声はひっくり返り、涙で裏返り、酷い有様だった。


「、んでっ!も、っっ、もっと早く出て来いよ!私はずっと夏樹の事――――!」

「言ったらあかん!」


泣いて怒鳴り散らかす私の口を、慌てた様子で夏樹が抑えこんだ。彼の熱い掌が、私の鼻から下をしっかりと塞いだせいで、ずっと本人には言えないままだった、でもきっと、いや、絶対。お互いが知っていたはずの感情を表す言葉は、口の中へと消えてしまう。


高校の卒業式のその日まで、お互いに何度も言おうとして、でも恥ずかしいやら照れるやらで、結局言えず仕舞いだったたった二文字の言葉を、私は今もまた言えないままに飲み下す。


「お願い、言わんといて・・・まだ・・・お願いやから・・・」


睨み上げた先で、夏樹の顔はぐしゃりと歪んだ。今にも泣きだしそうな、痛々しい、悲壮感に溢れた表情に勢いが削がれてしまう。

真っ直ぐに私を見つめながら、夏樹はゆっくりと、私の唇を塞いだ自身の手の甲に唇を落とした。ぎゅうっと心臓から子宮までの内臓全部が引き絞られるような感覚に襲われる。


何も言えないでぼたぼたと涙を流す私に、彼は手の甲に唇を押し付けたまま「お願い」と囁いた。


「あんたからそれを聞いたら、俺待たれへんくなるから・・・だから言わんといて。な?」


こんな・・・こんなの酷い。


そんなのずるい。


だってこんなのキスしてるのと一緒じゃない。自分も同じ気持ちだって、こんなにも全身から溢れさせておいて、なんでそんな事を言うの。


夏樹がいるならもうなんだっていいのに。夏樹がいない世界なんて、もう地獄でしかないのに。


なのにどうして、まだこのあやふやな関係に留まろうとするの。



変だ。言いたいことが渋滞してるのに、彼の掌の下の私の口はうまく動いてくれない。

ちろちろと視界の隅で何かが揺れ動く。なんだろう、黒い・・・炎?


違和感を感じるのに、体が重たくて動かない。ずるりと作務衣の袖を握っていた手が滑り落ちる。視界が陽炎に飲まれたように揺らめいて、どんどん体から力が抜けていく。


「、つ・・・き・・・?」

「ごめんな。ほんの少し寝とって」

「帰っ・・・、夏樹・・・なつ、っ・・・」

「うん、ごめん・・・ごめんな・・・帰って来るよ。ちゃんとここに戻るから・・・」


ああよかった。


よかった。帰ってくるんだ。夏樹、ちゃんと傍にいて、くれるなら――――・・・もうそれで。




+ + + + +





完全に眠りに落ちた彼女を、軽々と持ち上げた。その動作はあまりに軽々しい。とても、人をひとり抱えて立ち上がるような動作ではなかった。ぬいぐるみでも抱え上げるような、そんな軽々しさだ。


ほんの数歩移動して、彼女を寝乱れたままのベッドへ、そっと寝かせてやると、彼は枕元の床にしゃがみこみ、さらりと彼女の髪の撫でた。それからあまり血色の良くない頬をそっとひと撫ですると、やおら立ち上がる。


ざわりと空気が騒めくが、それに気づく者はいない。


彼女の前にいた時の、根っから明るい雰囲気はどこかへ消えて、一目見て人でないものだと確信するような、不穏な雰囲気を纏ったあやかしがそこには立っていた。


「あのストーカー野郎・・・どうしてくれよう」


怨嗟に塗れた声でぼそりと呟き、そして次の瞬間、その声が彼女の部屋の空気へ溶け込むのと時を同じくして、彼の姿もまた、陽炎のように揺らめき、掻き消えた。

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