第4話


玄関前の廊下へ投げ捨てられたバッグを拾い上げた夏樹は、子どもみたいに泣きじゃくる私を抱えるように部屋へ入った。


夏樹は、私をベッドへ座らせると、勝手知ったる様子で電気ケトルを使ってお湯を沸かし、私も忘れていた、かなり前に貰ったイイ紅茶のティーバックを引っ張り出して来た。


馬鹿みたいに手際がいい。というか、なんで我が家の事をそんな何でもかんでも知ってるんだ・・・。


そう思いつつ、あり得ないような出来事の連続に思考が麻痺していて、言葉をひねり出すこともできず、ただぼーっとベッドの縁へ腰かけたまま彼の背中を眺めていた。


「ほい」


お気に入りのマグカップで紅茶を入れ、ついでにミルクまで入れたものを当たり前のように差し出され、受け取らない訳にもいかずに「あ、どうも」とぼそぼそ呟きながら受け取る。


彼は、自分の分のマグカップを持ったまま、拳ふたつ分ほど開けて私の隣へ座った。それは紛れもなく昔から馴染みのある距離感で。あの頃、なかなか縮めることができなくてヤキモキしていたはずの距離感で。そして、今となってはあまりにも愛おしい距離感だった。


「・・・ありがとう、助けてくれて」

「ちょぉ、やめてやそんなん。当然やろ、俺ら幼馴染やん」


ああそうだ。そうだ。夏樹の声ってこうだった。こんな声だった。


鼻の奥がツンとする。


夢の中で散々叫び声は聞いたけれど、こんな穏やかな、普通に話す声を聴いたのはいつぶりだろう。

あの日、高校の卒業式の日以来だから・・・――――やめよう。年数を数えたら辛さが増しそうだ。


馬鹿々々しい程昔の恋を引きずったまま、延々ここまで来てしまった自分が情けなくなる。立ち直るチャンスはいくらでもあった。心の底から優しくしてくれた人だっていた。支える意志を持つ家族も友達もいた。私は決して不幸ではなかった。


でも・・・それでもダメだった。私は、彼でなきゃダメだったのだ。それを突きつけられ続ける日々でしかなかった。自分で自分を不幸にしていると知っていて尚、立ち直れないまま、無味乾燥な人生を歩んだ。それは、弱くて愚かで意固地な私の選択だ。


改めて隣に座る彼を見る。


自分の分のマグに口を付けた夏樹は「ぅわちっ!」なんて言って紅茶を拭き冷ましながら啜っている。相変わらずの猫舌らしい。

顔は、私の記憶や、写真の中の彼よりは幾分か年を重ねている雰囲気がする。間違っても高校生には見えないし、私と同い年と言われても特に違和感は感じない。体つきは、どうだろう。記憶の彼よりも少しがっしりした気はする。髪の毛の色は、洗いざらしの黒髪しか知らないので、オレンジっぽい茶色というのはちょっと違和感があるけれど、存外それも似合っている。


変わっていると言えば、服装もか。まさかの和服だ。濃紺の甚平を着ている。いや、袖が長いから作務衣か・・・?ちょっとこのふたつの違いがよく分からないけれど、多分作務衣だろう。ズボンも脛の辺りまであるし。


頬も唇も血色は良いし、視線も普通に定まっている。どう見ても生きている。生きているようにしか見えないというより、確実に生きている。だって息遣いすら聞こえてくるのだ。違和感がない。


「なんやそんなマジマジ見て。照れるやん」

「いや。照れる前に説明してよ。死んだよね?」

「おう、さっきまで小鹿みたいにビビり倒してた可愛い子ちゃんどこ行きよったん?いきなりストレートでぶん殴ってくるやん」


しょうもない事をのたまうので、ついうっかり条件反射で言い返してしまった。やけに嬉しそうに憎まれ口をたたく彼の笑みは、飾りっぱなしの、毎日話しかけているあの写真の、そのままだった。


ぐっと胸が締め上げられて、もしかしたらこれって死ぬ前の幸せな幻覚なんじゃないかという考えが浮かんでくる。本当の私は灰寺にめった刺しにされていて、或いはキッチンに置いてた包丁で頸動脈を掻っ切って、まな板の上の鯉みたいに、吸えない空気を吸っているのかもしれない。


なんだか、その考えが妙にしっくりきた。


だって、そっちの方がよほど現実的だ。ずっと昔に死んで、しっかりとその死体も確認して、葬式にも参列した幼馴染が、生きて、それどころか成長して目の前に現れるよりもよほど。


それでもいいやと思った。

よしんばこれが幻覚だとして、何を構う事があるだろう。


ようやっと見る事の出来た、夢想するばかりで叶う事のなかった彼との幸せな未来みたいな、そんな夢だもの。これを見た後どんな酷い死に方をしたとして、もう別に悔いはない。だからもう、これが夢でも現実でも、どうだってよかった。


「まー死んだんやけどもー」


とんでもなく軽い調子で、彼はぐいーっと組んだ手を上に伸ばして体を伸ばしながら、そのまま背後のソファへと倒れ込むように凭れ掛かった。小さくソファのきしむ音がして、彼の体重が確かにあるのだと感じて妙に安心する。


「なんか色々あってさぁ。妖怪になったんよね」

「・・・え、何。ふざけてんの?」

「いやぁそれが本気で――――ちょ、絞めんといてェっ」


高校生の時のようなノリで、彼の襟元を締め上げたのはワザとだ。


だって泣きたくなかった。


もう頭も心もぐちゃぐちゃで、だから18歳のあの頃の自分を、その頃の、明日も絶対に彼が隣にいると妄信していたあの頃の私を模倣するのだ。


この嘘みたいな夢に溺れて死にたい。


とことんまで夏樹を見て、聞いて、感じて、味わって、それで死んでしまいたい。だって、これが本当に夢なら、もしこの後現実に戻ってしまったら、そんなのただの地獄だ。


「ほら見て!見てって!」

「は・・・?」

「ほら耳!な!な!?猫耳ついてんねんって!」


・・・思考がフリーズする。

そりゃだって、人間の頭から人間じゃない形の耳がぴょこっと生えているのだ。固まりもするだろう。どこに隠していたのか、彼の頭の横あたり、人間の耳が生えているであろう場所には、三角の毛に塗れた耳が生えている。


いやいや。


いやいやいや。


ファンシーがすぎる。


ほぼほぼ夏樹の体をソファに押し倒して乗り上げた状態で、私は髪の色と妙にマッチしたオレンジっぽい毛並みの耳を、むにっと摘まむ。


「ひゃぁっ!?やめて!?耳やめて!」

「エロ漫画の女の子みたいな悲鳴上げんなよ」

「なあ辛辣すぎひん?・・・なあって」


三角になっている部分を親指と人差し指に挟んで揉んでみるけれど、実にこう・・・猫だ。普通に血が通ってる温度もある。ちょっと高い体温とか、人間の耳より薄べったい感じとか、毛の感触とか、まるきり猫だ。間違ってもアクリル製の毛でできた、綿を詰められたぬいぐるみの感触ではない。

根元を探ってみるけれど、普通に髪の付け根に繋がっている。猫の耳、或いは人間の耳と同じで、繋ぎ目も縫い目もなく、そこにあって当然というように、本来人間の耳があるであろう場所に猫の耳が生えている。


猫耳から手を離し、夏樹と少しだけ距離を離してマジマジと彼を上から下まで眺めまわした。


「え・・・・・この年で猫耳はイタいって」

「それ俺がいっちゃん気にしてる事やねんけど、知ってた?」


あれ、なんかちょっとイカ耳になってる。ちゃんと感情ともリンクしちゃう感じの猫耳なのか・・・。えー、どうなのそれ。可愛い。


ゼロになっていた距離をもぞもぞと元の距離へと戻す。

テーブルの下で、手の感触を確かめた。そこに残る、布越しに触れた、男性らしい骨格の体と滲む高めの体温を脳裏に刻みたかった。


でも、そんな事をしているなんておくびにも出したくない。


いつ掻き消えるかもしれないこの瞬間を、波立てず、平穏に、大切に過ごしたい。


「いや大丈夫。可愛いって」

「かっこいいって言うて。ネコ科の耳やぞ」

「いやでも、どう見ても家猫の耳だよねそれ?家猫の分類は可愛いでしょ」

「失礼なやっちゃな。クールな猫もたくさんおんねん」


嗚呼そうだったな。こうやって、ぽんぽんと中身のない会話をするのが大好きだった。大好きだったことにすら、あなたが死んでから気付いたのだけれど。


いてくれればよかったのだ。隣に、ただいてさえくれればそれでよかった。



ねえ、夏樹。


頑張って一緒に合格した大学は、ひとりで行ったんだよ。

夏樹がいない事実を全然受け止められなくて、見たこともない大学生のあなたをキャンパスの中に探した。

友だちはできなかった。私は水の中で、彼らは空気の中で生きているみたいな大学生活だった。透明な幕の隔てた隣り合った世界みたいな、そんな感じだった。


それでもね、一応最初は馴染もうと思って、サークルに参加してみたりしたんだけど。新歓で飲み潰れて、名前も知らん男の家で目が覚めて、その行為だけはまあまあ好きになった。そう言うことしてる時だけ、なんとなく寂しさが紛れるから。でも恋人なんて欲しくなかった。ただ私が、夏樹を妄想して、夏樹とそういう事シてる疑似体験をしたいがための、マネキンみたいなものが欲しいだけだったから。


でも、そうなんだって理解するまでに3年くらいかかったな。適当に勉強して、適当にマネキン漁りする私がまともな友だち作れるわけないでしょ。そしてそんな女にまともな男が寄って来るはずもない。だから結構、大学時代はずっとぼっちだったんだよ。


そう言えば、あなたの実家。あの何の特徴もないマンションにある、私の実家の隣の部屋ね、もう夏樹のご両親が住んでいないのは知ってる?


夏樹のお母さん、私が悪くないのも、飲酒運転してた運転手が悪いのも、全部全部分かってるのに、どうしても生きてる私を見るのが辛いのって泣いてたよ。当然だよね。辛いに決まってる。でも私もあなたも、歩いてたのは歩道だし、それを責めるのは間違ってるって思ってくれてるから・・・。だからたまに私を見かけて「お前が死ねば良かったのに!」って泣き叫んで怒鳴りつけて、そのあとすぐに土下座せんばかりに謝るのをね、何回も何回も繰り返して、それで最後は引っ越して行っちゃった。夏樹のお父さんもね、お母さんの事一生懸命支えてたけど、すごい痩せちゃってさ・・・。悲しかった。


だから、ごめんね。私今、夏樹のお父さんとお母さんがどこに住んでるか知らないの。


ねえ、夏樹。


ずっとふわふわ生きてるばっかりで、ずっとずっと夏樹の事忘れられない私がさ、両親は、特にお父さんは理解できないみたいでね。だからもう最近は、実家とも結構疎遠なの。というか、そのうち死のうと思ってたから、わざとそうしてた。両親には申し訳ないと思ってる。大事に育てて貰ったのに、こんな親不孝者でさ。恋人にもなれなかった幼馴染が死んだって言うそれだけでさ、人生全部投げうっちゃう馬鹿に育てたつもりはなかっただろうなぁ・・・本当に申し訳ない。


「なあ、なあ――――」


不意に彼が私の名を呼んだ。珍しい。いつも「あんた」としか言わないのに。


言いたいことが溢れかえって、でもこの仮初の平穏を守るためには言えない事ばかりで。結果何も言えないままぼーっとしていた私は、彼の声にハッと我に返った。


「なによ」

「そんなに泣かんといてよ」


遠慮がちに手を掴まれた。その温もりにどきっとする。

夏樹は少し身を屈め、私の顔を覗き込んでくる。その距離の近さに心臓を鷲掴みにされながらも、彼の表情があまりに悲しげで、痛そうなものだから、二の句が継げない。


そしてまっすぐに注がれる視線で彼の目を改めてマジマジと見て、嗚呼、本当に人間じゃないんだ、と納得した。

目が、瞳孔が違う。長めの前髪の隙間から覗く、元々すこし猫っぽい雰囲気のアーモンド形の目を至近距離から見て思った。丸くなってたからあんまり違和感がなかったけれど、今の彼の瞳孔は縦長のアーモンドみたいな形をしている。完全に、猫のそれだ。


その夏樹の変わってしまった目が、霞んでは焦点が合うのを繰り返す。ぼたぼたと際限なく溢れていく涙に、逆によく今まで気づかなかったものだと、我ながら感心した。


「泣いてないよ」

「嘘下手すぎやろ。ほっぺたべちゃべちゃやん」


「泣いて、ッ、な゛い」


自覚したら、もうダメだった。


指先だけを遠慮がちに握った、その弱すぎる力加減と温かい体温がダメだった。


声がよれって、一気にぐちゃぐちゃの心がせり上がって来る。


「ふ、ぅ゛、ッ、泣いでな、ぃ゛」

「っ――――せやな、ごめん。泣いてないわな」


そっと、背中に手が置かれた。記憶のそれより大きくて、重さのある大人の男の手だ。私が拒否したら瞬く間に離れる気でいるのが易々と想像できるような、そんな柔い力の入れ具合は昔のままで。その近すぎない距離感があまりにもどかしくて、なのにこんなにも愛おしい。


「ちゃんと、ッ、慰め゛ろよばかぁっ」

「いやそんなん躊躇うやろ。男心なんやと思ってんねん」


ぼそぼそと悪態をつきながら、それでも夏樹は、緩く、本当に緩く、そっと、縮こまった私の体を抱きしめてくれた。なんでか花火の匂いがした。中学生の頃、キャンプへ行った時にやったっきりの、あの手持ち花火の匂いだ。それもふわりと香ってすぐに消える。


私を抱く腕の緩さも距離も、大人になった私にはまるで物足りなくて、だから私は、よく分からない怒りと勢いに任せて、彼の背中に手を回し、ぎゅっと思い切り抱き着いてやったのだ。


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