第7話



飛ぶように日々は過ぎて行った。



人というのは慣れる生き物、だなんてよく聞くけれど、それは事実だと心の底から実感した。


彼と同居を始めた最初のうちは、仕事から帰ったら夏樹が消えているんじゃないかと気が気じゃなかったけれど、実際そんな事はなく、彼は普通に家にいる。

段々と駅から走って帰る事が無くなり、そしてそのうち家で彼が待っているのが当然になって、その日々を当然のように甘受するようになった。

それでも、ふと胸裏に、燻るような熱と、言いようのない不安と切なさが襲う。でもそれがあるから私は、不用意な一歩を踏み出さずに済んでいるのだろう。


薄氷うすらひの上に佇むような生活にすら慣れるのだから、人間って本当に生に貪欲な生き物だ。



二人で暮らすには少し狭い11畳の1DKはしかし、いつでも夏樹の姿が見えて、安心できた。

私はベッドで、夏樹はその隣にマットレスを敷いて寝る。お互いのベッドへ入り込んだりなんて言う色っぽい事は何もない。修学旅行で小学生が布団を並べて寝るような、そんな色気のない関係性を保ち続けている。

それでも、夏樹がいるのに代用品なんてもちろんいらないから、体の関係だけで繋がっていた人たちとは、あっさりとすべての関係を清算した。まあ、ただ「彼氏できた」と連絡して、ブロックして終わりだ。簡単だった。


会社は、転職しようかなと思っていたのだけれど、どういう訳かあの日以降、灰寺の様子がおかしい。私に全く関心が無くなった様なのだ。どうやら仕事もミスを連発するようになったらしい。お陰でやつは次の派遣更新がなくなったと風の噂に聞いた。


当然ながら、言いたいことは山のようにあるし、警察沙汰にするか本当に、心から、非っ常に迷ったのだけれど、考えれば考える程、警察沙汰にできない。なんせ、夏樹の事を掘り下げて聞かれたら、困るのはこちらなのだ。うまい説明も思い付かず、モヤモヤは残っているものの、私の方も水に流す、という事でとりあえずは納得することにした。


まあでも、灰寺はどこからどう見ても確実におかしくなっている。

私の事も意図的に避けている、とかそういうレベルの無関心ではない。人格が崩壊したような、ぎりぎり社会生活を送れているくらいの、ほんとうにギリギリ人間を保っているというような雰囲気で、前の灰寺とはまるで別人である。誰がどう見ても「何かあった」と考えるような状態なのだ。

とはいえ、私の同僚たちは隣の島での出来事だから対岸の火事であるし、私だって関わらないで済むのならそれが一番いい。


少々心当たりはある。なんせ超常的な存在が最近身内にいるので、「夏樹あいつ何かしたのか?」と考えずにはいられない。だってタイミングがタイミングだし、そりゃ思うに決まっている。とはいえ、私も性格のいい人間でもないので、灰寺と関わらなくて済んで非常にストレスフリーだし、もうすぐ視界からも消えるとなるといい事しかないし、そのまま触れていない。何も知らないで通すのが恐らく一番平和だろう。



...



..



.






「ただいまぁ」

「おかえりー」


ドアを開けて気の抜けた帰宅の声を掛ければ、夏樹の声が返ってくる。それを当然のように受け止める反面「よかった、今日もいる」と心の底からホッとする。


夏樹は、あまり自分の事は話してくれない。


私も、深く掘り下げて聞こうとしない。


だから、私は妖怪がどういうものなのか、全然分からないまま一緒に住んでいる。それが夏樹なら、まあ別になんだっていいか、という曖昧というよりは投げやりな思考の末の暴挙だ。

何時この平穏な生活が終わってしまうだろうかと恐れながら、いつまでも続いてくれと願いながら。でも現状が永遠に続くなんて欠片も信じてない。それどころか、夏樹との関係を深めたり、理解度を深めるような努力も何にもしていない。ただ都合よく、表層の甘い部分だけを舐めて満足しようとする私は、本当に愚かしくて仕様がない。


泥沼だ。


でも抜け出したくない。助けも求めていない。このまま、ぬるく居心地のいいここで、死ぬまで溺れていたい。


「風呂張っといたで」

「ありがとー。入っちゃお」

「おう、飯温めとくわ」


ここへ住み始めた当初からだが、夏樹はなにくれとなく家事全般をやってくれる。普通に下着まで洗われるのは若干どころではない抵抗があったのだが、なんだかんだでそれも慣れた。

服を買おうか、と聞いたけれど「作務衣こっちで慣れてるからええわ」とあっさり断られたのでそのままだ。ころころと色が変わるので、なんか知らないけど着替えはあるらしい。でもそれが一体どこにしまわれているものなのかは、全く分からない。


なんであれ、こうして家事をしてくれる事には、本当に感謝しかない。


「いつもありがと。今日何?」

「麻婆豆腐」

「えー、好きー」

「おー知ってんでー」


ゆるいやり取りをしながらお風呂へ向かう。いつもシャワーでささっと済ませていたのに、夏樹がお湯を沸かしてくれるものだから、最近ちゃんと湯船に浸かっている。


一緒に住み始めてそろそろ1か月が経とうとしてるけれど、大家さんや管理会社から何か言われたりも特にない。その理由は、夏樹が玄関から外へ出たり入ったりしていないからだろう。

時たま空気に溶けるように消えて、また同じようにふっと現れる。まんま幽霊である。相変わらず触れば体温も実態もあるのに、本当に不思議だ。


どういう訳か、食費を渡したらいらないと言われる。「泥棒はだめだよ」と言ったのだが「あほか。俺かて稼いでるわ」と胡乱な表情で返されただけだった。だけどどうやって稼いでいるのかは全然教えてくれなかったし、あまり納得も行かないのだけれど「ほれ、盗みなんてセコいことせえへんわ」と言いながらドヤ顔でレシートを渡されて、とりあえずは納得せざるを得なかった。


詳細は分からないけれど、妖怪には妖怪の社会があるらしい。某日本を代表する妖怪の主題歌のせいで、お化けには学校も会社もないんだとばかり思っていたから、これには驚いた。


「夏樹は夏樹だもんな」というそれだけで、私はもう無理やり納得することにしていた。





食事の片付けも終え、寝支度を整えてお互いの寝床で寝転んだ状態でホラーゲームの実況を流し見る。実況者の素っ頓狂な叫びや罵声に、ふたりでけらけらと笑って、適当なところで寝る、というのがここ最近の夜のルーティンだ。


「んははっ!ビビりすぎやろー」

「ふふっ、あ、ねえ今日さー」

「おーん?」


ゲーム内で高所から落下するシーンを見ている時だった。そのシーンを見て、不意に今日の出来事を思い出してしまったのだ。その話をしたくなって、私は充電器に差しながら触っていたスマホを枕元に放り出し、何の気なしに夏樹に向って話しかけた。

生返事のお手本のような声が返ってきたので、そのまま言葉を続ける。


「駅の階段から落ちてさぁ」

「え、は?なん・・・、怪我は!?」


私に背を向け、頬杖をついて寝転がっていた状態から、がばりと勢いよくこちらに向き直る瞬発力はなかなかに猫を感じる。猫耳もぴんっと立ってしっかりこちらを向いているあたり、本気で心配してくれているらしい。


「いや、そんな慌てなくても。3段くらいだし、足くじいたのと尻もちついて蒙古斑みたいな痣ができただけだよ」

「なんやねん、蒙古斑って」


へらへらと笑って返すと、彼は慌てた自分を恥じるように不貞腐れ、ため息をついて薄いマットレスの上に溶けるように伸びた。


「なんか最近ついてないんだよねぇ・・・。イヤホン落とした瞬間に踏みつけられて壊れたし、引き出しに思いっきり指挟むし、普通に食べてるだけなのに、ランチのお皿が真っ二つに割れるし。で、今日は階段から落ちるでしょ。もー散々よー」

「っ・・・、もっと早よ言えや」

「え?」


夏樹がぼそぼそと小声で呟く。何を言ったのか聞こえなくて聞き返すが、返答はない。

なんとなくで見ていた夏樹にしっかりと彼に焦点を合わせると、どうにも少し顔色が悪い。


彼は寝転がったまま、私の方は見ずに、口を開いては閉じ、何度も言い淀む。緩み切っていた空気感がもう完全に張りつめていた。唾を飲む。場違いなゲーム実況者の騒ぐ声が煩わしくて、私はリモコンを操作してテレビの電源から落とした。


ぶつっと騒々しい音が途切れ、いきなり部屋が沈黙に支配される。その沈黙があまりにも痛くて、私はうろうろと視線を彷徨わせてしまった。


夏樹は、そんな私を見るとへらりと笑って、妙に明るく取り繕った声で尋ねた。


「なぁ、俺がさ、今日でバイバイって言ったら、あんたどないする?」


張りつめていた空気が完全に凍る。空気が凍る「ぴきっ」という幻聴が聞こえた気すらした。


心臓が痛い。呼吸するのすら痛い。


どうしてこうなった、という思いばかりが頭の中を駆け巡る。階段から落ちた話なんてするんじゃなかった。もう頭の中にはそれしかない。まさか今、こんな何にもない和やかなタイミングで、この時が来るだなんて、覚悟も何もできてない。


それでも。それでもいつか終わると予期してはいた。


その思考だけで、私は短く息を吸い込んだ。


「っ、っ、ぁ・・・えー?そしたら、・・・そしたらちゃんと、バイバイってしたげるやん」


言葉に詰まった一瞬を、なかったことにするように、とって付けたような関西弁で返した。なるべく平穏に、いつもの調子で返そうとして失敗した口調は、肩事みたいに不自然だった。「へたくそ」と笑ってくれないかな、なんて思ったけれど、彼はまっすぐに私を見て、もうへらへらした笑みも浮かべていなかった。


頭の中に悲鳴が響いている。


「いやだ」「引き留めないと」「ずっと一緒にいるんじゃないの!」と、なりふり構わず叫ぶ私がいる。

「覚悟してたでしょ」「仕方がないじゃない」「こうするって最初から決めてたんだから」と、本音をねじ伏せて、私はきゅっと下唇を噛んだ。


「なぁ・・・・・、なあ、それなら」


のっそりと体を起こし、自分のマットレスの上に胡坐をかいて座った夏樹の視線は、少し寒気がするほど真っ直ぐで、私のすべてを見通していそうだ。彼に倣い、私もむくりと体を起こして、ベッドの上に座る。自然、正座になったのは日本人のさがだろうか。


「ちゃんと、俺がいなくなってもちゃんと、前向いて生きてける大丈夫か?」


彼の言葉に、呼吸ひとつ乱さなかった自分を褒めたい。


あまりに残酷で無意味な質問だったから。考える間でもない。そんなの無理に決まってる。


いっそのことだ。最初から夏樹との生活の「その後」なんてこれっぽっちも考えていない。


でも、夏樹が去るのを止めるつもりだってない。


夏樹はもう、人ではないのだから。詳しく聞いたわけではなかったけれど、妖怪には、きっと妖怪のルールがあるのだろうと、一緒に暮らしていてそれとなく感じた。なんとなく、無理してこちらにいるのだろうと、感じていた。私はそれにおんぶにだっこで、それがいかような努力なのか、全く聞くこともなかったけれど、でもその努力に心から感謝はしていたつもりだ。そして、そうして多少無理しても私と一緒にいたいと思ってくれることに、汚らしい優越感と充実を感じていた。


本音を言うのなら、まだこのぬるま湯のような生活を続けたい。縛り付けて、雁字搦めにして、私の事だけ考えて、私の為だけに存在して、私と一緒に息をして、私と一緒に息を止めて欲しい。そう思っているくせに、自由でいて欲しいと思うのも、また本音なのだ。


彼らしく、のびのびと生きて欲しいと、本当にそう願っている。


きっと私は害悪だ。


せり上がる涙を、そっと飲み込んだ。今ここで泣くなんて、そんな事はしたくない。代わりに笑う。これ以上なく朗らかに、それっぽく。


「馬鹿ね、当たり前でしょ。今までだってそうやって生きて来たんだから」


ねえ私、昔から結構嘘つくの得意なの。


つく必要がないからつかなかっただけなの。


呆れたような、何言ってんのという思考を前面に出したような声を作って、純度100パーセントの濃縮された嘘をつく。今までもうまくは生きられなかったし、あなたがいなくなったらもうあとは、身辺整理をして、自分の命にも整理をつけるだけだけど、でもそれを、夏樹に語る必要なんてない。


「死んだらあなたに会えるかな」なんて思っていたけれど、夏樹ってば妖怪なんだもん。きっと死んだらもう会えないね。


でもいい。そんな不確かな希望より、この1か月の掛け替えのない幸せを手にしたのだから。これ以上を望んだら罰が当たりそうだもの。だからもういいのだ。タイムリープと同じか、それ以上の奇跡を体感しておいて、これ以上なんてあまりにおこがましい。



ぎりりと音が鳴る。


目の前で、夏樹が痛そうに、苦しそうに顔を歪めて、奥歯を食いしばっていた。人間に比べると長い犬歯が唇の端から覗く。オレンジ味があると言っても茶色い髪が、毛先から炎のようにゆらゆら揺れ出している。随分と禍々まがまがしい。


彼が怒っているのが分かっているのに、人でないものにしか見えないのに、それを美しいなと感じてしまう私は、きっともう、あちらこちらの回路がおかしくなってしまっているんだろう。


「嘘が、下手すぎんねん、アホ」


地を這うような低い声で唸った彼は、音もなく眼前に迫り、そのまま私をベッドへ押し倒した。


男女ふたりで、軋むベッドの上にいるというのに、色気の欠片もない。夏樹は、組み敷いた私の両手首をベッドへ磔にして、爛々と光る眼で見下ろしてくる。


夏樹の猫耳の体毛がなんだかふわふわしている。もし彼がもっともっと猫だったら、今はきっと全身の毛を逆立てて怒っているんだろうな、なんてそんな想像をしたらおかしくて、私は思わずちょっと笑ってしまった。

猫にするように、彼の頭をよくよく撫でてあげたいのだけれど、残念ながら押さえつけられていて何もできそうにない。


なので代わりに、私は寝ころんだまま肩を竦めるなんて器用な事をしながら、彼を宥める様に言葉を掛けた。


「嘘じゃないって。私が何年独りで生きて来てると思ってんの?」

「嘘やろが。これっぽっちも生への執着が見えへん。せめてその薄っぺらい笑顔やめろ」

「失礼過ぎない?」


ギュッと掴まれた手首が少し痛い。多分後で見たら跡が付いているだろうけれど、夏樹に跡をつけて貰えるなんて嬉しい事でしかないから問題ない。

私は彼の真剣な調子を受け流して、困ったように笑って見せる。


「俺がいなくなって・・・それであんたはどうすんねや、自殺か?・・・っ、勘弁してやほんまに」

「っ、なんでそんなに怒ってるの?自殺なんてしないって。気にし過ぎだよ」

「お願いやって・・・なあ、頼むよ・・・そんなに死を望まんといてよ・・・」


夏樹の声が震えて、ぽた、と私の頬に水滴が落ちてくる。


そうだったね、夏樹。あなた結構涙もろいのよね。


ほんのすぐそこにある夏樹の綺麗な猫の目玉が、苦し気にゆがめられ、ぼたぼたと涙が落ちてくる。


私は泣かないよ。今はね。一緒に泣いたらだめだ。

喉の奥を締める。


表面だけは湖面のように静かな精神を保つ。


いやごめん、嘘。全然嘘だ。

ぐらぐらと沸く寸前の、気泡だけが立ち上る湯の張った鍋の水面みたいな、そんな心地だ。まだギリギリ、沸騰していないだけ。でも、そこに至りたくはなくて、私は必死に平静を保つ。クールダウンしよう。感情的になったらだめだ。決めたことでしょ。ずっと、最初から決めていた事でしょう。必死に自分へ言い聞かせる。


「自殺なんて、そんな勇気ないよ私」


この感情は、諦念と呼べばいいのだろうか。自分でもよく分からない。ほんの少し、何かが揺らいだら、ぐちゃぐちゃでどろどろの心の内が溢れそうで、私はそれを無視するために、真意を突く夏樹の言葉を、おチャラけて受け流す。


「なあ・・・俺はどうしたら、あんたを救えんねん」

「もう十分、救われてるよ」


彼の悲痛な声に、私は不誠実な嘘で返すことしかできなかった。


それが私にとって、唯一出来る、彼を解放する術だったのだ。


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