第3話

彼はマグカップをプレートにそっと戻す。そして唐突に探偵然とした態度で、


「さてさっきの続きだけど、彼女が消えたタネをゆっくり推理しようじゃないか。なあに、彼女が戻ってくる予定時刻まで八十分あるんだ。じっくり考えよう」


推理ったって、どう推理するっていうんだ。人が忽然と消えちまったんだ。何の手掛かりも残さずに。


「ちっちっち、手掛かりはあるはずさ。それも、身近なところにね。まずは君が加奈さんを追ってトイレに着いたときを思い出してくれ。そこには他に誰もいなかったのかい?」


俺が彼女の後を追ってトイレに向かったとき……。その場には誰もいなかったと記憶している。


「通りがかった人とか、すれ違った人はいなかったかい?」


そんな生徒はいなかったはず……。というかなんでそんなことを、何か関係があるのか?


「全て関係しているかもしれないし、そうでないかもしれない。この謎を解き明かすには、まず全ての記憶を掘り下げて、ストーリー展開から登場人物まで全てひっくるめて考えなきゃいけない。これはそのほんの足掛かりというわけさ。……それから十五分後くらいに僕がやってきたんじゃないかな?」


そうだった。


「それまでに誰かがトイレに近づいたりしたかい?」


いや、トイレには加奈さん以外誰一人として入っていないはずだ。


「それは本当かい?」


おいおい、俺はそんな耄碌してないぜ。それに数十分前の記憶だ。まだ出来立てほやほやだ。鮮明といっても過言じゃない。


「まあ君の脳のスペックはこの際置いておこう。でもたとえ目で見て脳が記憶していても、自分では認識できていない記憶もあるかもしれないよ」


それはいったいどういうことだ? 見たものは見てるんだから、その記憶も正しいはずだ。


「残念ながら、人間の記憶力……まあこの場合は認識力って言ったほうがいいかな。それは思ってるほど完全なものじゃない。例えば君はある風景を見たとして、それを全部一枚の白いキャンパスの中に描けるかい? 緻密に正確に。無論、人間は写真機じゃないからそんなことはできない。……まあたまにできる特異な人はいるみたいだけれど。君はそうじゃないんだろう?」


ああ。俺はそんな特殊能力持ちじゃないぜ。


「それならやっぱり完全な記憶は持っていない。おそらくは君が注目した、自分の意思で認識したことを覚えている。まずは加奈さんだ。君にとって彼女は最重要認識目標だろうからね。そして彼女がトイレに入り、彼女が出てこないかを注視したはずだ。むしろそれ以外に注意を払っていなかったとも言える」


「けれど、さっきも言った通り、中には誰も入らなかったぞ」


「そう、中には誰も入っていない。でも君はそのことをしっかり思い出した。新しい記憶の中でしっかりとそれを認識できたんだ。だがそれはやっぱり完全じゃない。なぜならそれ以外の出来事についてしっかりと認識していないからだ。さっき君が思い出せたのは、僕がたまたまトイレに誰か近づいたりしていないかと聞いたのがきっかけだ」


ああ、確かに言われてみればそうだ。こいつに言われて初めてそのことに気づいた。


「じゃあ他のことをどうやったらもっと思い出せるか。中々自分の記憶を正しく認識できていない君の脳をもう少しひも解いてあげよう。君はどうやらあのトイレの往来を女子生徒がするものだと考えているね」


それはもちろんだろ、なにせあそこは女子トイレだからな。男子トイレは隣の扉だ。


そう言い切ったとき、頭に鈍痛が走る。なんだこの違和感は……。何か、何か見落としているような。


「それは間違いない。あそこは女子トイレだ。男子生徒は入ることができない。けれどもっと重要なことを君は認識していないんだ。それはあのトイレは教職員専用のトイレだということだ」


頭に稲妻が走るような衝撃を感じた。そうか、あのトイレは教職員専用だった。職員室に近く、最も生徒のいる教室から遠いトイレがあそこだ。緊急時以外は極力生徒はあそこを使わないようにしている。


するとなんだ、この頭の靄は……。確かあのとき……何かが……。


「そのトイレに誰も近づいてないんだとしたら、そのトイレから離れた人物はいなかったかい?」


ああ! そうだ思い出した。あの時、一人女の先生がトイレから出てきたんだった!


「それはいつ頃の話だい?」


あれは……確か加奈さんが入ってから五分くらいのときだった。


「つまり、加奈さんとその女の先生は、加奈さんが入ってから五分の間、同じ空間にいたということになる」


確かに、そう考えてみればそうだ。だが別にそんなことは関係ないよな? 先にその先生が入ってて、後から加奈さんが入っていった。で彼女が出てくる前にその先生が用を済ませて出て行った。


「そう。普通に考えたらなんてこともない話さ。現に僕が合流してから数人の先生はこのトイレを利用しに来てるしね。五分間一緒だったからって、その先生が関係しているとは明言できない。けれどもどうだろう。君が毎回ここで見張っているとき、同じような先生が出て行ったときはなかったかい?」


ある……。というより、毎回といっていい。加奈さんが入ってから五分後くらいにあの先生がトイレから出てくる。


「そう、それが一つめのキーさ。今回だけならともかく、毎回っていったらそれはもう偶然では済まされない。必然と言ってもいい。加奈さんとその先生は何らかの繋がりがあるはずだよ」


何てこった……。ここで新たな展開が見えてきた。トイレで加奈さんが先生と密会? それも五分間、それを複数回に分けて。


「どうかな。加奈さんとその先生が密会するだけなら、加奈さんはその後二時間もそこに滞在しなくていいはずだよ。というよりも、その加奈さんが失踪しているわけだけれど……。一度視点を変えてみようか。今度は加奈さんがトイレから出てくる前後のことを思い出してほしい。似たような手順でね」


……加奈さんが出てくるより以前に誰かが入っていかなかったか……。あっ!


「きっとまたその先生が入っていったんじゃないかな?」


そう、そうだとも。あの女教師が中に入っていったぜ。そしてその五分後くらいに加奈さんが出てきたんだ。……ん? 待てよ……。


「まさか、加奈さんとその先生が入れ替わってる、なんて言わないよな」


「ピンポーン。正解さ~。君が思い出した情報を照らし合わせると、もうそうとしか考えられないね」


でも、そりゃいったい何のために……。彼女がそんなことをする理由は? 先生になる必要があった? 先生になりすまして職員室に入って、テストの用紙を盗み見る……。


「馬鹿な男子中学生じゃあるまいし、そんなこと、彼女がすると思うかい?」


いや、あり得ないな。


「仮にそうだとしても、何回も変装して職員室を訪れる必要なんてないはずさ。むしろ回数が増えていくごとに正体が発覚するリスクが上がるといってもいい。つまりそのためにわざわざ彼女は変装しているわけじゃない」


そしたら、何のために、どういった理由で先生に成り済ます?


「そう。そんなこと、普通の女子高生ならしない。やっぱり、彼女はそんなことをしなければならなかったのっぴきならない理由があったんだ。そうでなければこんな事、するメリットがないからね。……一体全体それはなんだと思う?」


……先生にならなければならなかった理由……。

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