第二話 細胞レベルで愛してる

 北風が吹き荒れる一年で一番寒い季節。

 チェック柄のマフラーに目の辺りまで埋まり、肩を縮ませながら歩いていると、ちらりと目に入ったショッピングモールの一画が妙に華やいでいた。

 なんだか、上空にピンクの靄がかかっている。否応なく襲ってくる、この甘い空気。

 そう、この時期になると街を賑わすものはやっぱりあれ。あれとは、言わずと知れたバレンタインデーである。

 もうそんな時期かと思いながら、私はアヴリル先輩との待ち合わせ場所を目指し歩いていた。目的地は、最近行きつけのパスタが美味しい喫茶店である。

 今見たピンクの光景に触発されて、思い出す。こう見えて、私にだってアヴリル先輩と付き合う前は、多少の色々があったのだ。

 例えば中学時代、チョコレートケーキを作成したことがある。

 放課後、帰路を辿っている最中に偶然見かけたハートケーキ型の可愛らしさにうっかり衝動買いし、けれどなんとなく試作品などを作ることもなく迎えた二月十三日。本番前日。すでに熱は冷めていた。

 しかし、型を買ってしまった以上、なんとしても作るしかないと使命感に燃え、本の通りにやってみた。

 出来上がった物体をラッピングだけは可愛らしく盛って、さて誰にと考えた挙句、翌日の学校で、当時仲よくしていた女友達に試食してもらったところ、彼女曰く。

「……硬い。フォークが刺さらない。っていうか、ナイフも入らない。切れない」

 どうやらハンドミキサーなるものの使用を端折り、さらにやる気が不足した女の細腕の手動撹拌では玉子の泡立てが足りず、そのような結果になったのだと、あとで理解した。

「そ、それなら、クッキーだと思って食べてよ」

 そう取り繕ってみたものの、クッキーと見做したところで、その硬さは半端なかったようで、つまりそれは堅焼き煎餅もびっくりの歯の強化にしかならないという代物だった。

「なんの試練なの。歯が折れるよ」

 そう告げた彼女とは、以後卒業まで健全な友人関係を貫いたものだ。そしてあのとき、二度とお菓子なんて作るものかと固く誓った。

 そして、聖リュンヌに入学してから初めてのバレンタインデーが近づいてきた、今日この頃。 

「私がバレンタインデーの日に口にするものは、半額で求めやすくなった高級チョコレートよ」

「つまり、手作りチョコが食べたいということだね。それなら、水無月さんに頼めば作ってくれるんじゃないかな?」

「そうですねぇ。それじゃあ、チョコレートプディングなんでどうでしょう? 茹でて冷やしたバージョンと、蒸して焼いたバージョンを作ってくるので、皆さんにもお裾分けしますねぇ」

「その二つなら、私は蒸して焼いたバージョンを所望するわ。それで、さっきからそこで地味に書類仕事をしてる地味な弥生は、私たちにどんな地味なチョコレートを作ってくるつもり?」

「どうして、私が作る前提なんですか。というか、地味地味地味って三回も言わなくてもいいじゃないですか!」

 十一月に風紀委員会を引退した舞先輩と皐先輩。そして、現風紀委員長にして友達でもある水無月には、コンビニに並んでいる一個五〇〇円の典型的義理チョコを配る予定だ。

 期待なんてしないでくださいよ、と言外に含み、ハート型の堅焼きクッキー風ケーキの小話は、すでに披露済みである。

 私は普段から料理なんてしないのだ。料理をしない人間は、チョコレートを作ることなんてないのだ。

 年に一度、このチャンスに女子力を総動員して意中の人を落とす! などという野望もないのに、特に自身の好物でもないものを作るなんて、ありえない。

 そんなわけで、改めて思い返してみれば、私のバレンタインデーに纏わる多少の色々は、実にお粗末なものだった。

 だけど、今年はどうしよう。どうしたらいいのだろう。

 うーん、うーんと唸りながら喫茶店へ向かえば、門柱に寄りかかったアヴリル先輩からすかさず放たれたひとことは、いつもと同じ。

「遅いわよ」

「あ……」

「あ……じゃないわ。約束の時間を一〇分も過ぎているじゃない」

「ご、ごめんなさい」

「別に、怒っているわけではないわ。とりあえず、抹茶ラテでいいかしら?」

 店内の壁に掛けられた時計を見もせずに、すでに空のコーヒーカップを手にしたアヴリル先輩は、きっとさっきから何度も時計を見ていたのだろう。

 彼女もさすがに学習したのか、冬が深まってからは以前のように校門前ではなく、建物内で待ち合わせをするようになった。そうして、行きつけになったのがこの喫茶店というわけだ。

 こんな昔ながらの造りの店でも、その姿は相変わらず絵になっている。

 暖房の効いた店内だというのに、カーディガンも脱がず、ぴんと背筋を伸ばした彼女の制服には着崩れがない。四人掛けの席の彼女の隣の椅子には、ネイビーに近い紺色のコートがきっちりと畳まれていた。

 私が向かいの席に座ると同時に、通りかかった若い女性店員を呼び止める。

「失礼。抹茶ラテとホットコーヒーを頼めるかしら?」

 ただメニューを注文する姿さえ、なんて洗練されているのだろう。

 その美しさは時と場所を選ばない。やっぱり、この人のことが好きだな、なんて見惚れながら考えてしまうのは、私の脳内にも、さっきのピンクの靄フィルターがかかっているということだろうか。

 どうしよう。アヴリル先輩との初めてのバレンタインデー。

 もしかしたら、彼女もチョコレートなんて……欲しいのかな? いやいや、この人はそんなものより、何か実用性のある小物といった類のほうがよさそうだ。

 しかし、彼女の持ち物はいちいち微妙に高級品なのである。一般中流家庭に生まれた平凡な女子高生のささやかなお小遣いでは、とても――。

「何を考えているの?」

「え? べ、別に、なんでも……」

「今は私以外のことを考えないで」

「え……。わ、きゃーっ!!」

 いつものように、その夜のベッドの中。

 考え事のしすぎで、彼女にちょっぴりむっとされてしまった私は、これまたいつものように悲鳴を上げることになる。

 そして、時間は流れて、土曜日の午後。

 今日はただの土曜日ではない。バレンタインデーまで一週間を切った土曜日なのである。

 何気なくテレビを眺める私の隣に座る彼女の膝には、いつものようなハードカバーの書籍ではなく、雑誌が広げられていた。

 横目を走らせると、その黒っぽいページには、見開きいっぱいにチョコレートの写真が写っていた。しかも、目の端で捉えたキラキラした文字は、手作りと読めた気がした。

 私はしばし瞠目する。思わずアヴリル先輩の顔色を窺うと、彼女は表情も変えず、いつもの静かな双眸で私を見つめ返した。

 あれ? そのページを開いていたことには、特に深い意図はなかったの?

 勘繰りかけた私は、なんとなく安心する。


 ***


 心ここにあらずな弥生が何を考えているかなど、その脳内垂れ流しの様子を見ていれば、手に取るようにわかる。

 大方、彼女の頭の中はシーズン物のイベントのことで占められているのであろう。

 弥生がそうであるように、私は元来チョコレートを含めた甘いものを好む嗜好はない。弥生と共に食事でも摂っていたほうが、よほど有意義である。

 贈り物をくれるというのなら、彼女本人を差し出してくれれば、それで充分だ。日常的に使う備品であれ、なんであれ、私には元々物欲もないため、彼女から何かを貰おうなどという考えは一切なかった。

 そもそも、日本に於けるバレンタインデーというものは、製菓メーカーが張り合って、売り上げアップを目論む商戦の一つである。

 私は長い間、このイベントには極力関わらないようにしてきた。義理チョコや友チョコと称したものは一切受け取らないし、渡すこともない。

 しかし、私の考えを思いがけなく揺るがしたのは、皐くんだった。

 それは、週明けの学院での出来事。昼食を摂るために食堂へ向かった私は、偶然皐くんと出くわし、なんとなく昼食を共にしたときのことだ。

 食事自体はすぐに終えた。その際、たまたま近くに座っていた二人組の女子生徒がバレンタインデーの話題に花を咲かせており、それを聞くともなしに耳に入れた皐くんの言葉が、私の心に小さな影を落とす。

「そういえば、もうすぐバレンタインデーだね」

「そうね。でも、私たちにはあまり関係がないイベントよ」

「まあ、僕はそうだけど、君は関係なくもないだろう。今頃、弥生さんがチョコレートのレシピを眺めてるんじゃないかな?」

「あの子はそこまで甘いものが好きではないのよ。チョコレート菓子を作るなんて、まず考えられないわね」

「そうかい? だけど、あの子、昔、手作りの――」

「あの子、昔、手作りの……?」

 明らかに口を滑らせたといった面持ちで口を噤む皐くんを、私はじっと見据える。

「どういうことかしら?」

「いや、なんでもないよ。まあ、ほら。中高生にもなれば、誰だって……その、色々あるものだろう? 天野だって、義理チョコを贈ったり、友チョコを貰ったことくらいあるだろう」

「私はそんなものは贈らないし、受け取らないわ」

「そ、そうか」

 まるで誤魔化すように弁を弄する皐くんだったが、私の耳が捉えた情報の断片は、すでに脳幹に送られてしまっている。

 繰り返すようだが、私は甘いものに興味がないのと同程度に、バレンタインデーというイベントには関心がない。

 けれど、それが弥生の手に成るもので、私以外の誰かの手に渡ったとなれば、話はまったく別だ。聞き捨てならない。

 日頃、料理という料理をあまりしない弥生ができることといえば、お米を炊くこと、お味噌汁を作ること、インスタントラーメンを作ることくらいだと認識していた。

 彼女がおやつと称して口に運ぶものは、複数人で分け合うことができるスナック菓子だったり、あるいはお団子やお饅頭といった和菓子類だ。

 飲み物こそジュースを選ぶこともあるが、大抵は抹茶オレや抹茶ラテなどの抹茶ドリンクである。

 その彼女がバレンタインデーというイベントに浮かれ、誰かにチョコレート菓子を作った過去があっただなんて、想像をしたこともなかった。私は弥生を見誤っていたのだろうか。

 携帯電話を取り出して確認すれば、デジタル時計は昼休み終了の五分前を表示している。非常に立ち去り難いが、今は教室に戻って、次の授業の支度をしなくてはならない。

「いや、わざわざ話すほどの大したネタじゃないんだけど……」

 皐くんは最後まで力ない声で言い訳をしていたが、私は放課後、改めて皐くんとの極めて個人的な会合を設ける約束を取りつけ、ひと足先に食堂をあとにした。

 それから、およそ二時間後のことである。

「……なぜ、あなたまで一緒にやって来るのかしら?」

「別にいいじゃないか。偶然、鉢合わせたんだからさ」

 待ち合わせ場所である学内カフェに賑やかな女子生徒が入ってきたと思えば、それは燕だった。彼女の後ろを萎れたようについて来たのが皐くんだ。私は思わず鼻白む。

「すまない、天野。ここに来る前に所用で風紀委員会室へ行ったら、今日も高屋敷が来ててね。これからどこに行くのか、根掘り葉掘り聞かれたんだ」

「今日も?」

 訝しげに聞き返すと、燕はあっけらかんとした態度で頷いてみせた。

「ああ、昨日も顔を出したよ。だって、もうすぐバレンタインデーだろう? 弥生とも今まで以上に仲よくしておかないとね。そうすれば、きっとあの子も、あたしにチョコレートを」

「ちょっと待ちなさい。あなたは何を勘違いしているの? それとも、そんなに義理チョコとやらが欲しいの?」

「何を言ってるんだい? 弥生があたしにくれるチョコレートが義理とは限らないだろう」

 いつも思うことだが、彼女の度を越したプラス思考は、呆れを通り越して賞賛に値する。

 弥生からのチョコレートを搾取するために風紀委員会室へ日参するとは、真面目に仕事に取り組んでいるであろう弥生と水無月さんに同情を禁じ得ない。しかし、今は賞賛も同情もしている場合ではない。

 今日に限っては、何かと横槍を入れてくる燕を完全に黙殺し、私は姿勢を正して皐くんと向かい合った。


 ***


 そして訪れた次の金曜日、バレンタインデー当日。

 今日はアヴリル先輩と外では落ち合わず、私の自宅マンションに来てほしいと、予め伝えてあった。時間も、いつもより一時間ほど遅めに設定した。

 火曜日が祝日だったため、今週は微妙に風紀委員会の仕事が立て込んで、結局当日となってしまった。悪夢、再び。

 いやいや、そうではない。今回はちゃんと身の丈に合ったものを作ると決めていた。

 要するに、初心者向けの技術も時間も必要としない、愛情さえたっぷり込めておけばいいよね、というチョコレートを作るのだ。

 それはトリュフチョコレート。いざ、戦闘開始だ。

 まず、ガナッシュに取りかかる。少なくとも、ケーキみたいなものよりはハードルが低いはず。材料や下準備は、昨夜のうちに頑張っておいた。

 皐先輩から貰った情報は、とても貴重なものだった。だけど、まさかアヴリル先輩が私の手作りチョコを欲しがっているなんて、と正直驚いた。私の料理スキルは知っていたはずなのに。

 いや、これはきっと試されているのだ。私の女子力を。そして、彼女への愛情を。

 なけなしの女子力を駆使して、くらくらするほどに甘い香りが立ち込めた部屋で奮闘すること一時間。冷蔵庫に収納した時点で、とりあえず前線の戦いは終わった。

 以前、後片づけも料理のうちだとアヴリル先輩が言ったことがある。それに倣って、私は抜け目なく戦後処理に入る。

 インターホンの音が鳴り響いたのは、そのときだった。

 ああ、タイムリミット。私はがっくりと肩を落とした。しかし、彼女を北風の中で長く待たせるわけにもいかず、急いで玄関扉を開けば、いつもと変わらない彼女が立っていた。

「ア、アヴリル先輩……」

「どうしたの? そんな鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」

「いえ、なんでもありません。ええと、散らかってますけど、どうぞ」

 正直、キッチンの状態は言葉では言い表せないほどひどい有様だが、間に合わなかったものは仕方がない。

「あの、念のために聞きますけど、甘いものは好きじゃないですよね? それでも、私のチョコレート、いりますか?」

「特に好物というわけではないけれど、弥生がくれるというのなら、喜んで貰うつもりよ」

「そう、ですか……」

 ラッピング材も用意してあったものの、それも間に合わなかった。

 私は冷蔵庫から取り出したお皿に載せられた出来たてほやほやのそれを、なんと言っていいかわからず、無言で差し出す。

 彼女はお皿の上のそれをじっと見つめ、珍しく大きく表情を動かした。ぴくりと跳ね上がった右の眉と、見開かれた双眸。それらの表すところを読み取ろうと試みる。

 感動、ではないようだ。驚愕でもなく、怒りでも呆れるというわけでもなさそう。

 私が料理を得意としていないことを熟知する彼女の反応は複雑だ。なんだろう、その顔つきが意味するものは。

「……これは、細胞かしら? ミトコンドリアのような」

「ミトコン……って、例えがひどいです! トリュフなんですけど、一応」

 意表を突いたアヴリル先輩の言葉に情けない気持ちでお皿の上を見下ろすと、確かに、その物体はミトコンドリアに見えなくもない。

 以前、生物の教科書で目にした覚えがある。そういえば、案外可愛いなと思ったんだ、あのとき。

「……よく見れば、本当にミトコンドリアみたいですね。そう言われたら、そう見えてきちゃいました。もう、アヴリル先輩ってば、妙なところで上手いですね!」

 失礼な感想にも、つい吹き出してしまう。

 はしゃぎ出す私を見て、アヴリル先輩がふっと口元を緩めた。あ、もしかしなくても、これは歓喜に分類される表情かもしれない。私もなんだか嬉しくなってくる。

 彼女が、自身で表現したところのミトコンドリアを長い指先で摘み上げた。しなやかな指の動きを見つめていると、それをゆっくりと口の中に運んでいく。

 息を詰めて見守る私の目の前に、不意に近づく灰茶色の瞳。はっと思ったときには細胞――もとい、私の作ったトリュフが口内に押し込まれていた。同時に侵入してくる、蕩けるように甘い舌。

「んっ、……んんっ!」

「前言を撤回するわ。私は甘いものが好きみたい」

「え? 嘘……。だって――」

「私の好きな甘いものというのは」

 アヴリル先輩のキスが止まらない。

 互いの口腔を行き来していたミトコンドリアは――いや、トリュフなのだが――、強く抱きしめられてしまえば、そんなことはどうでもよくなってしまって。

「弥生のことよ。ありがとう、トリュフも嬉しかったわ」

 ガナッシュはとっくにお互いの喉の奥へと消えて、果てることのないキスの合間に囁かれた彼女の言葉が、チョコレートよりも甘く甘く私を酔わせていった。



©️一ノ瀬友香2024.

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