第五話 All I want for Christmas is you the last volume

 飛ばした意識は何度も呼び戻されて。なんのために着ていたのかわからなくなったサンタコスは、とっくにベッドの下に落とされて。

 そうして、私とアヴリル先輩はひたすら快楽の波に揺蕩い、奔流に飲まれた。

 ――まだ冬の陽が昇り切らない、ぼんやりとした薄闇の中。うっすらと瞼を持ち上げれば、深い灰茶色の瞳が私を見つめていた。

「やりすぎてしまったわね」

 そう嘯く彼女は、まったく反省なんてしていないに決まっている。愛しげに私を見つめ、しかし次の瞬間、口角を吊り上げて小さく笑う。

「だけど、昨夜のあなたは、いつにも増してよかったわ」

 その満足げな口調。朝から本当にやめてください。

 だけど、お互い横向きに向かい合う体勢で、アヴリル先輩の温かい腕に包まれて、言葉もなく彼女の胸元に額をくっつけながら、やっぱり幸せだなと実感した私であった。

 今日はこの部屋で一緒に身支度を整え、マンションをあとにして、登校する。風紀委員会の仕事を早めに切り上げて、帰りも一緒に帰ってくるのだ。

 残念ながら、明日には旅行中の両親が帰ってくるのだが、今夜はイブだから、校門前で待ち合わせをして、近所のスーパーで買い物をして、また二人で過ごす。

 実はあの悲しい日曜日、私はそれでも彼女のために革手袋を買いに出かけた。綺麗にラッピングが施されたそれは、勉強机に備え付けられた引き出しの奥に、そっと仕舞ってある。

 昨夜、アヴリル先輩が開けたのがクローゼットで本当によかった。まさか、あんな想像もつかないものが出てくるとは夢にも思っていなかったけれど。

 それに、昨夜のアヴリル先輩は後半こそいつも通りではあったものの、なんだかとっても可愛かった。

 夜のアヴリル先輩といえば、完全に変態、痴女、サディストというイメージが私の中では定着していたのに、彼女のほうもいざ攻められると、あんなふうになってしまうだなんて。

 切なげな表情も、あれほど快楽に喘ぐ声も初めてだったから、思わずきゅんと来てしまった。

 あくまで前半までとはいえ、昨夜のアヴリル先輩があまりにも可愛らしかったので、思い出した私の口元が少し緩む。

 こうしている今も絡み合っている両脚。実はしっかりと目覚めている彼女の存在を感じられて、つい笑い声が漏れた。

「何を笑っているの?」

「いえ、なんでもありません。ただ、昨夜のアヴリル先輩が可愛かったなって……あっ」

 刹那、彼女の顔がぴくりと強張った気がした。

 私ははっと口元に手を当てる。いけない。こんなことを言ってしまったら、また。これまであんなに学習してきたというのに、私にはまだまだ足りていないようだ。

 調子づきそうになって慌てて口を噤んだけれど、彼女は腕を解いて、ぷいと反対方向を向いてしまった。自分だって、さっき同じようなことを言っていたくせに。

 とはいえ、アヴリル先輩の丸みを帯びた肩や、滑らかな背中を見つめていたら、だんだんおかしな気分になってきた。ちょっと、どうしよう。

 彼女が私にこんな姿を見せるのも初めてかもしれない。

 まだまだアヴリル先輩の新しい顔を知ることができる。そう考えただけで、私は心の底から嬉しくなってしまった。

 そこに鳴り響くアラームの音。もう起きる時間だ。

 思いのほか、あっさりと機嫌を直してくれたアヴリル先輩と一緒に、私が作った朝食――パストラミとチーズを挟んだマフィンとコーヒーだけだけど――を済ませ、順番にシャワーを浴びた。

 冬空の下も、アヴリル先輩と並んで歩けば全然寒くない。彼女の手が私の手にそっと触れて、密かに指が絡められる。たったそれだけのことで、泣きたいほどの幸せを感じてしまう。

 明日の朝はまた別々だけど、きっとアヴリル先輩の手には、例の革手袋が嵌められているはず。その光景を想像して、また胸の奥が温かくなる。

 家を出て、通学路を歩くこと約一〇分。

 坂道を上り終え、校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替えたところで一旦お別れという間際、私の耳元に触れた吐息が語りかける。

「今夜が楽しみね。せいぜい覚悟していなさい」

「は?」

 蜜のように甘い声は媚薬を思わせるほど官能的で、そしてとても意地悪だった。

 そのまま三年生の教室棟へ向かったアヴリル先輩の囁きがいつまでも耳の奥に残っていて、それはどういうわけか、昨夜の一部始終を思い出させて。

 私は生徒たちが徐々に登校し始めている廊下に呆然と立ち尽くすと、一人きり体を熱くしていた。


 ***


 その夜がどんな時間だったのかなんて、もはや言うまでもないとは思うのだけれど。

 放課後に待ち合わせて、お菓子や飲み物をいっぱい買って、通学路の坂道を下りたところにある小さなパティスリーでケーキまで買ってしまった。

 昨夜、あんなに何回もしたんだから、今夜は飲み食いに没頭してもいいよね?

 商店街のデリカテッセンは、クリスマスらしく綺麗な設え。

 気の進まなさげなアヴリル先輩を押し切って、私が買ったチキンレッグのローストには可愛い飾りがついているし、サラダも彩りがクリスマスカラーで雰囲気を盛り上げて、食べるのが惜しくなってしまうほど。

 玄関に置いておいた小さなツリーをローテーブルの上に飾って、グラスを出して、ささやかだけどイブを祝いましょう?

 ダッテ、クリスマス、ナンダモノ。

「何を言っているの? 今朝のことを忘れたの?」

「えぇ……」

 やっぱり報復をするつもりでいるのか、この人は。

 あらかた食事が済んだところで、いつものように涼しげな表情ですっと立ち上がったアヴリル先輩は、そのまま私の手を引く。

 一瞬、抵抗しようかとも考えたけれど、あとのことを考えると大人しく従っておいたほうが身のためだと思い直し、私はのろのろと彼女のあとをついて行く羽目になった。

 そもそも私、寝不足なんですよ? あなたもですよね? アヴリル先輩。

 明日も学園がありますし……と言いかけた私の手を取ったまま、アヴリル先輩がサイドランプをつけて、ベッドに腰を下ろす。

 ネクタイを解き、セーラー服の襟元についているボタンを外す彼女の姿はオレンジの淡い光を逆光にして、その相貌が濃い陰影を浮き上がらせ、ひどく色っぽかった。

「弥生。もう一度、あれを」

「あれ?」

 一方の私は立ったままで、手を繋がれた状態で彼女を見下ろし、きょとんとしてしまう。彼女の目尻がわずかに緩んだように見えた。

「あの衣装よ。サンタクロースの」

「ええっ、もう嫌ですよー!」

「お願い」

「だって、言うことを聞くのは昨日だけの約束じゃないですか」

「いいから」

 心なしか真剣な目をして私を見つめるアヴリル先輩は、まったく引く気配を見せずに、やや強めの口調で言った。

 もう、この人はやっぱり強引だ。それに、そんなに言うなら自分で出してくればいいのにと思いつつ、私はすぐ背後のクローゼットに手をかけた。

 そういえば昨夜、私はいつの間にか意識を飛ばして眠りこけてしまったのだが、もしかしてアヴリル先輩ったら、あのあとハンガーにあれを掛けて、またここへきちんと仕舞ったのだろうか。

 そういうところは、さすがアヴリル先輩だ。

 そんなことを思いながら扉を開ければ、昨日は奥のほうに掛けられていて目につかなかった真っ赤なサンタクロースの衣装が、今日は一番手前に掛かっていて。

 そして、ポールに掛ける金具の部分にもう一つ、見たことがないものがぶら下がっている。そこには、白くて小さな細長いペーパーバッグが引っかけてあったのだ。

 思わず振り返ると、アヴリル先輩はふっと口角を吊り上げた。

「……これって」

「あなたのものよ。開けてごらんなさい」

 ハンガーごと外し、慌てて中を覗けば、包装紙とリボンのかかった細長い箱が姿を現す。丁寧に開けると、出てきたのは箔押し加工が施されたギフトボックスだった。

 ドキドキしながら蓋を開ければ、透明感が美しいアクアマリンのプチネックレスがそこに納まっている。

「すごく綺麗……。あの、ありがとう、ございます……」

 感極まって、上手く言葉が出てこない。なんだか涙が出てしまいそうで、思わず唇を引き結ぶ。

 私へのクリスマスプレゼントを、こんなふうにサプライズにしてくれるなんて。

 だからだったの? 彼女が私の部屋に内緒で入るなんて、普段なら絶対にしないようなことをしてくれたのは。

 ギフトボックスから取り上げたプチネックレスが指先に絡み、私の誕生石でもあるアクアマリンが淡く光る。

 昨日、そのことを白状したときのばつが悪そうな、けれどどこか照れたような彼女の表情を思い出し、笑みと涙と、私の胸の奥から溢れ出す温かい何かが一度に込み上げてきて、抑え切れなくなりそうで――。

「衣装も早く」

「……はい?」

「自分でできないというのなら、私が着替えさせてもいいけれど。その服の構造は、もうわかったからね」

 えーっ!?

 ちょっと……!

 私の中から溢れ出しそうだったこの感情、どうするんですか。どうすればいいんですか。どうしてくれるんですか。

 アヴリル先輩は、無言で私を見つめ返す。その視線はまるで、どこに疑問があるの? 早く着替えなさいと言わんばかり。いや、むしろ、そこはかとなく期待がこもっているような。

 そして、私はまた逆らえずに。

 昨日、反省したはずなんだよね。できないことはできないと、はっきり言わないといけないんだって。

 だけど、有無を言わせない目つきのアヴリル先輩を前に、やっぱり何も言えない私なのだった。


 ***


 渋々と、再び着替えた真っ赤なミニのサンタコス。

 ベッドに腰掛けたままのアヴリル先輩が、昨日とまったく同じように、私をじっくりと眺めている。

「まさか、またこの格好で……する、とか?」

「当たり前でしょう。今夜がクリスマスの本番よ」

「……」

「いくら見ても飽きないわね。あなたのその姿は」

「やっぱり、へんた――」

 にやりと笑ったアヴリル先輩から突然腕を引かれ、片手で強引に顔を引き寄せられたかと思うと、そのまま唇を塞がれる。

 ああ、またいつものパターンだ。昨夜の可愛いアヴリル先輩は、一体どこなの。

「ん、……ぅ」

「何か言いたいことがあるの?」

「んん……っ」

 息継ぎの合間にくすりと笑い、不意に唇を離した彼女は、私の体の向きを変えて、背後から抱きしめながら片手で髪を掻き上げてくる。

 露わになった首筋に唇が当てられて、否応なく期待に震える胸がドクンと脈打つ。この人は、麻薬だ。

「ま、待ってください。まだ、お風呂が……」

「あとでいいわ」

 アヴリル先輩の腕から逃れようとする私を羽交い締めにするように、彼女の指先と、ひやりと冷たいものが肌に触れる。

「あ……」

 反射的に声を上げれば、纏めた髪を私の右肩から前に流されて、さっきのプチネックレスが私の首の後ろに留められた。

「絶対に外さないで」

 そう言って、彼女が後ろからもう一度抱きしめてきて、首筋のプチネックレスに唇を触れる。

 その姿を横目に自身の胸元に指先で触れれば、銀色に光る細い鎖の周りや、胸の谷間にたくさん散らされた赤い所有の印が、熱くなった自分の体温のせいで、その色を濃くしていくのがわかった。

「あなたの体中に、私の名前を書いておきたいくらいよ」

「いっぱいつけたくせに」

「この程度では足りないわ」

「まさか、これ、首輪のつもりじゃないですよね?」

 振り返った私を見つめる彼女の瞳がわずかに見開かれ、次いで、柔らかく緩んだ。凄絶な色気を纏って細められた灰茶色の双眸は、また私を捉えて離さない。

「……そうね、そういうことになるのかしら」

 首輪なんてつけなくても、私はとっくにアヴリル先輩に雁字搦めにされているのに。

 この間からの出来事で、改めてよくわかった。私が彼女から離れるなんて、絶対にできないということが。

 それは多分、ずっと前から。アヴリル先輩と初めて出会ったときから、決まっていたことなのかもしれない。

 回された腕に力がこもる。強い力に捉われてなお、もっともっと捕まえていてほしいと、そんなことすら思った。

「弥生」

 吐息がかかるほど近くで囁かれる私の名前は、体の奥底にある官能の泉をさざめかせるようなトーンで、肌が粟立っていく。落とされた唇は、まるで私の全身を、細胞の一つ一つまでを性感帯に変えていく。

 胸元で光るアクアマリンに口づけた彼女は、ちくりともう一つ印を刻んだ。それを舌でなぞるものだから、私はまたくらくらとして、すべを任せてしまいそうになる。

 だけど。

「ま、待って、お願いします。私、も……」

 このまま流されてしまえば、うっかりと忘れてしまう。

 私は必死でアヴリル先輩の腕を抜け出して、勉強机に備え付けられた一番下の引き出しを開けた。取り出した平たい箱には、赤の包装紙に金色の細いリボンが掛かっている。

 こちらをじっと見つめていた彼女の手を取り、それを載せれば、驚いたような瞳が私に向けられた。

「これは……」

「あの、クリスマスプレゼント、です」

「私に?」

「はい。気に入ってもらえるといいんですけど……」

 箱から現れたブラウンのレザー手袋が、アヴリル先輩の細く繊細な長い指に、ぴったりと嵌められた。彼女は両の手の甲をこちらに向けてみせる。

「似合う、かしら?」

「はい、とっても。想像以上です」

 思わずはしゃいだ声を上げてしまうと、アヴリル先輩がまたその目を細めた。

 そういう顔が、また私の背筋をぞくりとさせる。肩にかかった長い金髪をさらりと払う仕草も、つと口の端を持ち上げる表情も。

「あなたの首に嵌ったのが首輪だとしたら、私の手に嵌ったこれは手錠ね」

「それ、いいですね。アヴリル先輩も、永遠に私に繋がれればいいんです」

「私はとっくにあなたに囚われているわ」

 革手袋の両手が再び私を抱きしめて、そのまま体を反転させたかと思うと、ベッドに押し倒される。こんな状況で、なんてずるいことを言う人だろう。

 アヴリル先輩のほうこそ、自分の一挙手一投足がどれだけ私を翻弄しているのか、わかっていない。

 こうしてお互いにお互いを繋ぎ合って、心も体もずっとそばにいて、そんなふうに生きていけたらどんなに幸せだろう、なんて思った。

 見上げる瞳は、ベッドサイドの淡い光に照らされながら切なげに揺れ、彼女の腕が、私の頭を抱え込むように優しく包む。

「ありがとう。来年も、こうして一緒に」

「はい」

「再来年も、その次も」

「はい」

「死ぬまで、私と」

「え? それって……」

 一生、私と一緒にいてくれるっていう意味ですか?

 咄嗟に聞き返そうとしたけれど、アヴリル先輩はそれ以上を語らなかった。代わりに、くすりと微笑み、私の頬を愛しげに撫でてくる。

「メリークリスマス、弥生」

「アヴリル先輩……」

「愛しているわ」

「ん……」

 メリークリスマス。

 私も、アヴリル先輩のことを愛しています。誰よりも。

 そう答えたかった言葉はすでに飲み込まれ、私はアヴリル先輩の温かな腕に包まれて、彼女の痛いほどの愛に溺れて、どこまでも溶けていってしまうのだ。

 多分、これからもずっと。



©️一ノ瀬友香2024.

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