第四話 獲物と野獣の接近戦
十一月某日、金曜日。
今日は聖リュンヌの文化祭当日だ。そして、今は午前の部のメインイベントである告白大会が行われている。
ちなみに、ひと組もカップルが出ないと盛り上がりに欠けるので、その場合は主催者が女子生徒側にサクラを頼むことになっているらしい。
昨夜の電話でその話をしたら天野先輩は苦笑していたものの、本気で気分を害しているわけではなさそうだった。少なくとも、その時点では。
連絡をわざわざ電話にしたのは、機嫌を判別しづらい彼女と込み入った話をするには、メールやメッセンジャーアプリよりも、直接声を聞くに限ると思ったからだ。
〈カップルが成立したら、その場でキスをするのでしょう? そんなイベントに、サクラをやってくれる女の子なんているのかしら〉
「それはわかりませんが……。まあ、ひと組も成立しなかったときに備えた保険ですし、大丈夫だと思いますよ」
〈ふむ。それにしても、人前で告白なんてして楽しいのかしら? カップルの成立よりも、出場者の確保のほうが大変そうだわ〉
「それは大丈夫です。告白大会を仕切ってる二年生の皆さんが、前以て出場者を集めたそうですから」
これは午後の部のメインイベントであるミスコンに於いても同じで、ミスコンを仕切っている三年生が、事前に出場者を集めていた。
どちらも毎年、文化祭のメインイベントとして扱われている割に、自ら立候補をしようと考える生徒がほとんどいないからだ。
ごく稀に、遊び半分で参加する生徒がいるという話も耳にしたけれど、それでもあまり数はいないとのこと。
〈よく出場者が集まったわね。イベントとして成立させるためには、最低五人のエントリーが必要なはずだけど〉
「そこは、ほら。二、三年生の皆さんが努力したからこそですよ。とにかく明日、告白大会が終わったあとに落ち合いましょう。午後の部が始まったら、また忙しくなりますし」
一緒に文化祭を見て回る時間が少ないことに不満そうにしながらも、最終的には了承してくれた天野先輩。私はほっと胸を撫で下ろしながら、通話を終了させた。
毎週金曜日は私と天野先輩のデートの日だと決まっているのだが、今週は文化祭が行われるので、生徒会長である天野先輩と風紀委員の私はそれどころではなかった。
そもそも、生徒会役員は天野先輩を含めた三人しか所属しておらず、風紀委員に至っては舞先輩と皐先輩、水無月と私の四人だけ。
さすがにその人数では仕事が回らないので、各クラスから文化祭実行委員を一人ずつ選出し、ようやく運営が成り立つ状態になったというわけだ。
こういう切羽詰まった状況では、何かしら問題が起こりやすい。
けれど、聖リュンヌに入学してから初めての文化祭に内心浮き足立っていた私には、翌日起こる出来事を想像する頭がなかった。
***
「舞さん、お慕いしております!」
「おーっと! 図書委員長の
「五十二点。出直してきなさい」
「神宮寺女史、ボケで返しました!」
生徒の大半が集まった校庭で、告白大会の司会者に促された男子生徒が舞先輩に愛を告げ、軽くあしらわれていた。
事前のエントリーは合計五人。しかし、飛び込みでの参加も可能なので、出場者はもう少し増えるかもしれない。
そのとき、校庭の奥からステージを眺めていた私は、こちらに近づいてきた上級生と思わしき女子生徒から声をかけられ、何事かと振り返る。確か、彼女は告白大会の進行係だったか。
「ごめんなさい、望月さん。風紀委員のあなたに、こんなことを頼むのもどうかと思うんだけど……」
「私に頼み? 何かあったんですか?」
「実は、残りの出場者はあと二人なの。飛び込みで誰かが参加してくれるかもしれないけど、このままだとカップルの成立は厳しいでしょう?」
「はあ。まあ、そうですね……」
「だから、本当に申し訳ないんだけど、サクラとしてステージに上がってくれない?」
困惑気味の私を無視して、進行係の女子生徒はパンッと両手を合わせて懇願する。
告白大会のサクラ。それはつまり、同じくサクラに選ばれた生徒の告白に頷いて、偽カップルとして、ステージの上でキスをするという意味である。
彼女の言う通り、私は風紀委員だ。その私が全生徒の前でキスをするというのもどうかと思うし、そもそも、私には天野先輩という恋人がいる。
だけど、言えない。なぜなら、私と天野先輩は女の子同士だからだ。私たちが交際をしていることは一部の人間しか知らないのだ。
「お願い。内容が内容だけに、誰彼構わず頼み込むわけにもいかないの。文化祭を盛り上げるためだと思って」
「え、いや、でも、私、そういうのは、ちょっと……」
「後生だから! それに、何も口と口でキスをしろと言ってるわけじゃないの。頬でいいから。ね? この通り!」
キスをする場所の問題じゃありません。
そう反論したかったけれど、天野先輩との関係を隠した状態で、どう切り抜ければいいのかがわからない。
そんな中、残り二人の出場者がステージの上に登場し、あえなく玉砕。
ここで閉幕すればいいものを、告白大会の参加者も残すは一人などと司会者が宣言したため、生徒たちの間に歓声が湧き起こる。
一方、中々頷かない私に痺れを切らしたのか、進行係の女子生徒は私の腕を引っ張って、強引にステージの近くまで連れて行く。
すると、先にステージに上がっていたサクラと思わしき男子生徒が司会者からマイクを受け取り、如何にも緊張してますといった様子で、私の名前を呼んだ。
「望月弥生さん!」
「うっ……」
「ずっと前から好きでした……!」
言葉を詰まらせる私とは裏腹に、迫真の演技で愛の告白を述べる男子生徒。
次の瞬間、やたらとムーディーなBGMがスピーカーから流れ出し、司会者や進行係はもちろん、生徒たちから期待の眼差しが向けられる。
視界の端では、今しがた図書委員長の告白を袖にした舞先輩がこちらに携帯電話を向けていた。まさか、写真か動画でも撮っているのだろうか。
それは一体、なんの冗談――いや、さすがに冗談では済まされない。笑えない。笑えないですよ、舞先輩。
口元を引きつらせたまま硬直する私の耳に、男子生徒の焦れたような声がぼそぼそと聞こえてくる。
「いつまで固まってるつもりなんだ? 望月さん。早く頷いてくれないと、先へ進めないじゃないか」
「さ、先って……」
「カップルが成立したら、ステージの上でキス。それを承知で、君もサクラを引き受けたんだろう? ほら、早くOKして」
早くOKしろと言われても、私はサクラを引き受けたつもりはない。むしろ、断る気満々だった。
今回のようなケースは、男性からしてみれば大した問題ではないのかもしれないが、女性にとっては由々しき事態である。それなのに、早くOKしろとはどういう了見だろうか。
いや、しかし、目の前に佇む男子生徒の表情からは、悪意や下心のようなものは一切見受けられない。恐らく、彼は与えられた使命に忠実で、且つ一生懸命なだけなのだ。
ふと見れば、いつの間にかこちらから視線を外した舞先輩が携帯電話を弄っていた。
世界征服でも企んでいるかのようなその姿は、この男子生徒よりもよほど悪意に満ちており、何かろくでもないことを考えていることは明白だ。
「望月女史、どうやら熟考している模様! これは脈ありではないでしょうか!?」
激しく動揺する私の心境に構うことなく、司会者が勝手なことを言っている。
どうして、私はサクラの話を持ちかけられたときに、きっぱりと断らなかったのだろう。こういうところが、私の悪いところなのだ。
わかっている。何もかも悪いのは私だった。結局、拒否をしなかったのは私自身なのだから。
「わ、私も……す、……」
「お待ちなさい」
観念して頷きかけたそのとき、玲瓏とした声が響き渡った。
振り返ると、どこからともなく颯爽と現れた天野先輩が、つかつかとステージに上がってくるところだった。美貌の生徒会長の乱入に、生徒たちの間にどよめきが走る。
絶対に怒られると思って身を縮めかけた私だが、予想に反して、天野先輩は何も言わなかった。けれど、それは彼女が怒っていないということではないとすぐにわかる。
告白大会の盛り上がりは最高潮に達していたというのに、それまでハイテンションに実況をしていた司会者と、私にサクラを頼み込んだ進行係、そして男子生徒の顔が青ざめた。
怒声こそ上げていないが、天野先輩の全身から発せられる怒りの波動が尋常ではなく強かったせいだ。
誰が、なぜ、こんなことに。
私が男子生徒の告白を受け入れかけた理由を追求する台詞は、天野先輩の口から出なかった。
周囲には目もくれず、私の元まで歩み寄ってきた彼女は、司会者からマイクをひったくるように奪って、こう告げた。
「午後の部の準備があるので、私たちはこれにて失礼します。引き続き、皆さんは文化祭をお楽しみください」
生徒たちに向かって淡々と、怖いほど静かに言ってのける。
いつもの穏やかな天野先輩とはどこか様子が違うことに生徒たちは首を傾げながらも、誰も抗議をすることはなかった。
身じろぎ一つしない男子生徒を無視して、司会者の前を通りすぎ、進行係の女子生徒をひと睨みしてから、私の腕を引くように、天野先輩が校庭をあとにする。
誰を恨むこともできないことはわかっている。すべて、私の考えの足りなさが悪かったのだ。
***
校舎に戻った天野先輩は、私とはひとことも口を利かず、すたすたと廊下を突き進んだ。感じる冷気は、痛いほど肌に突き刺さる。
やがて、生徒会室の前に辿り着いた彼女は、能面のような面持ちで私を振り返った。ああ、やっぱり怒ってる。
一見すると静かな灰茶色の瞳の奥に、炎が燃えているのが手に取るようにわかる。こ、怖い。
のろのろと歩く私の足は、うっかり出来心で踵を返そうとする。しかし、それより早く踏み出した彼女の足。
掴まれた二の腕がギリギリと痛み、それと同時に生徒会室の扉が開かれ、あっという間もなく、私は強い力で室内に連れ込まれた。すぐに扉が閉められる。
二人きりの生徒会室。すぐに顔の横に伸びてきて、ドンと音を立てて壁に突かれた両手は、私を完全に閉じ込めた。
これは正に、罠にかかった獲物の様相だ。逃げる術などない。彼女のめらめらと燃え盛る瞳は、さしずめ野に放たれた獣といったところだろうか。
いや、冷静に例えている場合ではない。
鍵を閉めないままでは誰が入ってくるかわからないし、そもそも、この獣はとても怒っているのだ。これは緊急事態と言える。私の心臓がバクバクと音を立てた。
焦りながらも、とにかく謝らなくてはならないときつく目を瞑り、私は消え入るような声で呟いた。
「ご、ごめんなさ――」
「望月弥生さん」
「は、はい……」
「好きです」
「……はい?」
次の瞬間、吐息と共に鼓膜にかかる声。信じられない言葉に、私は耳を疑った。……今、なんて言いましたか?
想像とはあまりにも違った展開に、恐る恐る開いた目の前にいたのは、獣は獣でも、獲物を食い殺そうとしている獣ではなく、凄絶に色っぽい目をした、ひどく妖艶な獣だった。
「告白大会は、飛び込みでの参加も可能なのでしょう?」
「そ、それは、そうですけど……」
「確か、カップルが成立したらその場でキスをするのがお約束なのよね。さて、あなたの返事は?」
天野先輩の指先が頬を滑り、私の唇を何度も撫でる。
もう片方の手は引けていた腰を抱き寄せ、それはそれはねっとりといやらしい動き方でヒップラインを撫で回す。ちょっと待ってください。この変わり身は、一体どういうことなんですか?
痛いほど打っていた心臓が、さっきまでのそれとは完全に意味を変えていた。もしかして、まさかとは思うが、天野先輩は怒った振りをしていたのだろうか。
「ちょ、ちょっと、天野せんぱ――」
「尤も、イエス以外の返事を聞くつもりはないけれど」
「え……?」
「それで、あなたの返事は? 早く答えなさい」
「やっ……やだ、待ってください。こんなところじゃ、天野先輩……っ」
「この期に及んで答えを焦らすだなんて、ずるい子ね」
そう言って、天野先輩はふっと口角を釣り上げた顔を近づけてくる。
いきなり深くまで塞がれた唇は熱く、舌が差し込まれるのと同時に、悪戯な指先がスカートの中に入り込み、私の思考をどろどろに溶かしていく。
「ん、……は、ぁ……天野、先輩……」
「まったく。舞から連絡を貰わなければ、今頃どうなっていたことやら」
「え……?」
「告白大会のサクラを引き受けた挙句、私以外の誰かの告白に頷こうとするなんて」
長いキスの合間に囁かれる声は、私の体の奥を疼かせるほどに甘い。ぞくぞくとした感覚が駆け巡る。
けれど、その言葉は彼女の曲解だ。それに、無人の生徒会室で人の興奮を煽ってくるこの美しい獣のほうが、よっぽどずるいと思うのだが。
「私の嫉妬心を焚きつけたのだから、きちんとお仕置きを受けてもらわなくてはね」
「え、あっ、……ん」
勝負に負けたのは、やっぱり獲物のほうだった。最初から完敗である。
天野先輩は、本当にずるい人だ。
©️一ノ瀬友香2024.
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