第二話 導火線に火をつけて
携帯電話の向こうから聞こえてくる水無月の切実な声に、私は一も二もなく頷くしかなかった。
〈迷惑だよね。本当にごめんなさい……〉
「ううん、気にしないで。困ったときはお互い様だもん」
だって、仕方ないでしょう?
水無月の両親は老舗の和菓子屋を経営していて、夜遅くまで店にいることが多く、近所には気楽に泊めてもらえるような友人宅もないと言うのだから。
それに、いくら風紀委員会の仲間だとしても、上級生である舞先輩と皐先輩の家へこんな夜更けに伺うのは、さすがの水無月でも気が引けるだろうし。
そんなわけで、私にかかってきた水無月からの電話の内容は、「不躾で申し訳ないんだけど、ひと晩泊めてくれないかなぁ……?」というものだった。
ベッドサイドに置いていたバッグに通話が切れた携帯電話を仕舞うと、ぼんやりと光っていたディスプレイの明かりが消え、辺りは暗闇に戻る。
胸元にブランケットを当てただけの私は、一糸纏わぬ裸だった。
通話をしている間もずっと私の腰に回されていた天野先輩の腕が離れたかと思うと、力が抜けたように、ぽすりとベッドに沈む音がした。
振り返ると、彼女は片手で顔を覆いながら仰向けになっていた。次いで、いつもに比べて数段低い唸り声が上がる。
「独断で承諾してしまったのね。私にひとことの相談もなく」
「だ、だって……」
夏休みも終盤に差しかかった金曜日の夜。時刻はすでに〇時を回ろうとしていた。
天野先輩が落胆とも憤慨ともつかない声を発するのは無理もない。こう見えて、私も少しがっかりしているのだから。
毎週末、こうして天野先輩と一緒に過ごすことがお決まりなのだが、先週、先々週と、お互いの予定がたまたま合わず、ようやく約束を結べたのは三週間ぶりだった。
しかも、間が悪いことに、私たちはベッドに入ったばかり。正にこれからという状況だったのだ。けれど、水無月の必死の頼みを断ることなんて、私にはとてもできない。
彼女の事情はこうだ。
今日は中学時代の友達と久しぶりに会っていて、上機嫌で帰宅すると、きちんと戸締りをしたはずの玄関の鍵が開いていた。
楽しい気持ちが一気に吹き飛ぶ勢いで扉を開ければ、室内が荒らされていて、どうやら空き巣が入ったらしいとのこと。
すぐに一〇〇当番をして、お巡りさんに検証してもらったところ、被害は物取りというより下着泥棒。
当然、両親には急いで帰ってきてもらったそうだが、被害に遭った夜に、そんな家で過ごすのは耐えられないだろう。それは同じ女子として想像に難くない。
お巡りさんからも、気持ちが昂っている今日くらいは仲のいい友人宅に泊めてもらったほうがいいだろうと促されたらしく、迷った末に私に連絡をしてきたというわけだ。
姿勢を変えず、すっかり黙り込んでしまった天野先輩に、私はおずおずと声をかける。
「駄目、ですか?」
「そうは言っていないわ」
言ってはいないけれど、明らかに不満そうだ。
とはいえ、まさかここで駄目だとは言えないだろう。天野先輩だって、人として。けれど、彼女の気持ちもわかるだけに、私は遠慮がちに小さく告げた。
「すみません。水無月は、私の家に泊めますから」
「……ここでいいわ」
「え?」
「ここへ連れて来なさい」
「はい?」
「向こうも待っているのでしょう? あなたも早く準備をなさい」
ゆっくりと体を起こした天野先輩が穏やかなトーンで言いながら、床に落とした衣服を身につけ始める。
その様子を見ていると、やっぱり天野先輩は優しい人なんだなと、思わず頬が緩んでしまう。
手早く身支度を済ませた彼女が、寝室を出しなに、「弥生を帰すわけにはいかないからね……」と呟いたことに、私は気づくことができなかったのだが。
***
そのあと、私たちはタクシーで水無月を迎えに行き、このまま寝てしまうのもなんだしということで、帰り際にコンビニへ寄って、お菓子や飲み物を仕入れてきた。
そうして、天野先輩の家のリビングで、いつぞやのプチパーティーのようなものが始まる。
空き巣被害に遭ったショックと興奮からか、いつもよりテンションが上がった水無月は、ポテトチップスの袋を開けながら今夜の恐怖を伝え、涙混じりに私に抱きついてくる。
私のほうはジュースが注がれたグラスを片手に、しな垂れかかってくる彼女の相手を一生懸命している。
するとそのとき、水無月が勢い余って私のロングTシャツに手をかけてきた。元から伸び切っていた襟元が大きく開かれて、私は慌てた。しかし、水無月は気にした素振りを見せない。
「うう、弥生ちゃん~!」
「ちょっと、水無月。大丈夫?」
その場に付き合っていた天野先輩は、時折話を振られては相槌を打っていたものの、水無月とは対照的にテンションがだだ下がりだ。心なしか、怒ったような顔さえしている。
彼女はほぼ無言で缶コーヒーを飲んでいたけれど、よく見ると目が据わっていて、少し怖い。
深夜二時。さすがに疲れていたらしい水無月は、騒ぐだけ騒いで眠ってしまった。天野先輩に彼女をベッドに運んでもらうと、人心地がついた私にも急激な睡魔が襲ってくる。
何気なく水無月の隣にもぐり込もうとすると、不意にぐいっと肩が引かれた。
「ここで寝るつもり?」
「え、駄目なんですか……?」
「弥生はこちらでしょう」
天野先輩の灰茶色の瞳は、さっきまでの無表情から一変して、何やら妖しく光っている。
突然のアクシデントで闖入者に阻まれた今夜が、本来なら二人の時間だったということは、私だってよくわかっている。だけど、いくらなんでも――。
疲れ切った私の体は有無も言わせてもらえないまま、リビングのソファへと引きずられていった。言うまでもなく、ソファは狭い。
ここで二人で眠るのは無謀でしょう? 水無月がいるベッドはダブルなんですから、私が向こうで寝るほうが建設的でしょう?
小声で訴える私を無視して、天野先輩はこれでもかと体をぴったりと密着させて、細い腕に私を抱き包み、狭い座面に横たわった。至近距離にある唇が近づいてくる。
ちょ、ちょっと、天野先輩! 水無月が目を覚ましたらどうするんですか!?
目で非難をしながら仰け反れば、天野先輩は負けじと憮然とした眼差しを向けてくる。
「弥生は私のものでしょう。この間の食事会といい、あなたたちは、いつもあんなふうにべたべたと密着しているの?」
「はい?」
突拍子もない台詞に、思わず目をしばたたかせてしまう。……え? 引っかかったのは、そこなんですか?
そんな疑問が脳裏を過ぎるが、天野先輩は至極真面目な顔をしていて、冗談を言っているようには見えない。まさか、彼女は何か変な誤解をしているのではないだろうか。
ちょっと待ってください。天野先輩以外の女の子とそういうことをする趣味なんて、私にはまったくありませんから!
そう弁解しようとするも、あっという間に唇が塞がれてしまい、それはそれはいやらしい動きで、彼女の手が私の背中から下へと這っていく。
出ちゃったよ、天野先輩の痴女っぷりが!
天野先輩には前科がある。いや、あれは騙されただけで未遂だったのだが、リビングに客人がいると思わされたまま襲われたことがある私は、激しく身を捩り、無言で暴れた。
今回は本当にいるんですよ、お客さんが!
「ちょっ、嫌、です……。天野、せんぱ……」
「……」
刹那、抵抗を続ける私の体をひとしきり這い回っていた手から力が抜けた。彼女はとても不機嫌そうな様子でこちらに背を向けると、「向こうで寝なさい」と呟く。
態度はともかく、やけにものわかりのいい天野先輩に内心でひやりとしながらも、睡魔が限界まで来ていた私はそそくさと寝室に戻って、水無月の隣にもぐり込んだ。
そのあとは何も考えることができず、深く寝入ってしまった。
***
明け方。携帯電話の着信音で目が覚めた。聞き慣れないこの音は、私のものではない。
隣でごそごそと動く小さな影に、就寝前の状況がすぐに思い出される。室内は早朝特有の白々とした光に包まれていた。そんな中、水無月が声を抑えて着信を受けている。
「うん、うん、……わかった。先輩のお宅に泊めてもらってたんだけど、じきに戻るから」
「……水無月?」
「あ、ごめん。起こしちゃったね。両親が、今日と明日は家で仕事をすることにしたから、迷惑をかけないうちに戻ってきなさいって……。本当にごめんなさい」
音を立てないようにベッドから下りる水無月は、すっかりテンションが落ち着いたのか、大層恐縮して、ごめんなさいと繰り返している。
そういうことならと、私も起き上がってリビングの扉を開ければ、ソファで横になっていた天野先輩が目を開けた。
時刻は間もなく朝の六時になろうとしている。ここから水無月の家まで徒歩で三〇分はかかるため、天野先輩がタクシーの手配をしてくれるという。
昨夜はあんなに怒っていたのに、やっぱり彼女は優しい人なんだなと、ほっこりした。
しかし、早朝の車内で運転手と女子高生が二人きりという状況を危惧した私たちが、水無月を無事に自宅まで送り届けたあとの帰り道で、私はそれが思い違いだったことを知る。
「あの、なんだか、道が違うような気がするんですけど……」
彼女の表情は無を示していて、私の問いにも答えず、じっと前方を見据えたまま。
気分転換に歩いて帰りましょうと言われたまではよかったものの、どうやら来たときとは違うルートを通っているようだ。
やがて視界の端に映り込んできたのは、見慣れない河川敷。
そこで突然私の手を引いて、石造りの階段を下り、木陰にやって来た天野先輩は終始無言だ。驚いて顔を上げると、彼女の美しい横顔のラインは闇に溶けていた。
「あ、あの、天野先輩……?」
「あなたは何もわかっていないわ」
「え? 何もって……」
「昨夜から、私がどんな気持ちでいたのかを」
「はい?」
こちらを向き直った彼女は、複雑な色を浮かべた瞳で私を見つめる。
「……ま、まさか、相手は水無月ですよ? やきもち、とかじゃないですよね? いくらなんでも」
動揺した頭で考えてみるが、答えはそれしか思い当たらない。
おずおずと口にした言葉に反応したかのように、天野先輩の瞳はゆらゆらと揺れていた。この妖艶な目つきは私のよく知るもので、こういうときの彼女は――。
まずいと思う間もなく、天野先輩の右手が私の左肩を強く押し、素早く動いた左手は、私の背後にそびえ立つ木に当てられる。
彼女の灰茶色の瞳は一層燃え盛るようで、私はその目に焼き尽くされるような錯覚を覚えた。行動とは裏腹な彼女の言葉は静かに、けれど一言一句、はっきりと紡がれる。
「あなたの言う通りよ。私は誰彼構わずやきもちを妬くような、狭量で嫉妬深い変態の痴女よ。悪い?」
「ひ、開き直るんですか……!?」
「黙りなさい。私の導火線を短くしたのはあなたでしょう」
「ちょっ、あ、天野せんぱ――」
むすっとした天野先輩の右手が、私のロングTシャツの中に容赦なく入り込み、荒々しく唇に唇が押し当てられた。
「ん……っ、あま、の……せん……ぱぃ、んんっ」
左手は木に当てたまま、噛みつくように与えられた濃厚なキスに頭の中は真っ白になり、目尻には涙が滲んでくる。こんなところで、早朝だというのに。
けれど、私には彼女を止める術がない。
辺りに人の姿がちらほらと現れるまで、天野先輩の成すがまま、翻弄されるしかなかった。
©️一ノ瀬友香2024.
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