第二章 徹底的運命
第一話 一生の不覚
今週はお互い仕事が忙しく、ようやく訪れた週末。夏休みの一日目。いつも通り、天野先輩の家。
彼女には持ち帰った雑務があったので、私は雑誌を見ながら大人しく待っていたのだが、それも昼頃には終わったらしい。
天野先輩が眼鏡を外す。眼鏡姿を見ることは滅多にないので、密かにドキドキしてしまった。
「このあとは、どう過ごしましょうか?」
天野先輩が作ったパスタで昼食を済ませ、やっとこさ寛いだ様子の彼女が尋ねてくる。
「そうですね……。映画でも借りてきて、家でのんびりとお茶でも飲みませんか?」
私はどちらかと言えば、外を出歩くよりも、部屋でまったりするのが好きなタイプ。そのことを知っている彼女は、私の提案に優しい笑顔で頷いてくれた。
馴染みのショッピングモールの中にあるレンタルショップで、彼女の好きな本格ミステリーと、私の好きな歴史物を一本ずつ借りて、帰り際に食品売り場でお菓子と飲み物を買い込む。
そのまま元来た道を戻り、玄関の扉を開けた瞬間、天野先輩の携帯電話が震動音を発した。
ポケットから取り出して、ディスプレイに視線を落とした彼女の眉がぴくりと吊り上がり、画面に指を滑らせる姿は、今しがたの上機嫌から一転して、あからさまに不機嫌になっていく。
携帯電話から漏れて聞こえる声は、恐らく舞先輩のもの。
同じ風紀委員会に所属していることもあり、彼女の声は私も非常によく知ってしまっている。
ごめんなさいとか、今日は予定が入っているのだとかいう天野先輩の台詞から察するに、何かに誘われているのだろう。
キッチンに向かい、スーパーで購入したものを冷蔵庫に入れながら、脇に立つ彼女の声を聞くともなく聞いていた。
「だから、今日は無理だと言っているでしょう。もう切るわよ」
そう告げた瞬間、不意に天野先輩が黙り込む。
どうかしたのかと様子を窺えば、彼女は困惑したような表情を浮かべている。携帯電話の向こうからは、これぞ悪女と言わんばかりの高笑いが聞こえていた。
***
「すまないね、天野。それに、弥生さんも。せっかくの夏休みにお邪魔してしまって」
「……いえ」
リビングのソファに浅く座った皐先輩が、向かいの席に腰掛ける天野先輩とキッチンに立つ私に、とてもばつが悪そうな顔で謝罪する。
一方、言葉少なに答える天野先輩は、どこか遠くを見ていた。
まだ夜と呼ぶには早い時間。
ローテーブルの真ん中に、三桁の数字と店名が記された紙袋が置かれ、その隣には四つ入りの豚まんが入った箱が数個、鎮座していた。
そういえば、舞先輩と皐先輩のお父様は関西に出張中だと言っていた。
「住所を控え忘れててね。父が送ってきてくれたものを届けようとしただけなんだけど……」
「お気遣い、ありがとう。だけど、なぜ舞まで一緒なの?」
「いいじゃない、別に。そこそこ長い付き合いなのに、あなたの家に招待されたのはこれが初めてなのよ。親友に対して、ひどい扱いよね」
「他の日ならともかく、今日は人様を招待する気はないのだけど」
「でも、驚いたわ。あなたたちが付き合い始めたことは知ってたけど、まさか夏休みまで、べたべたと鬱陶しく引っついてるとはね。このくそ暑い中、よくやるわ」
麦茶が注がれたグラスを片手に、ベランダのレースカーテンを捲って外を眺めていた舞先輩は、天野先輩の抗議を無視して毒を吐く。
刹那、天野先輩の口元が引きつり、その面持ちにはわかりやすく不快の色が滲んだ。
一方、冷凍庫に入っていた冷凍餃子や冷凍焼売をフライパンで軽く炙っていた私は返答に困って、苦笑するしかない。
お父様が送ってきた冷凍豚まんがクール宅急便で到着し、天野先輩にお裾分けをするために家を出ようとしたら、舞先輩もついてきたのだと語る皐先輩も、心底申し訳なさそうだ。
「それじゃあ、僕たちはこれで……」
「え? せっかくですし、みんなで一緒に――」
軽く腰を上げた皐先輩を引き留めた私は、隣から強烈な圧力を感じて、慌てて口を閉じる。
「弥生が食事の用意をしてくれていることだし、皐くんはいてくれて構わないわ。舞はお帰り願える?」
「ずいぶんと引っかかる言い草ね。その豚まんを寄越してきたのは皐の父親であると同時に、私の父親でもあるのよ」
「それはわかっているけれど……。あなたって、あえて空気を読まずに長居して、私が不機嫌になる姿をにやにやと眺めていそうじゃない」
天野先輩と舞先輩の間でそんなやり取りが交わされながらも、結局このメンバーでの食事会が始まった。
関西に展開している某中華料理店で販売されている豚まんは、玉葱の甘さと豚肉の旨味が絶品で、電子レンジで蒸しただけの冷凍食品とは思えないほど、美味しかった。
「このお店の豚まんを食べたのは初めてですけど、本当に美味しいですね」
「餃子のタレをつけても美味しいわよ」
冷凍餃子についていたタレと一緒に豚まんを食べる天野先輩もだんだん和んできたように見えて、私はほっと胸を撫で下ろした。
次いで、からしとポン酢の組み合わせもお勧めだという皐先輩の意見を参考に、冷蔵庫からそれらを取り出し、ひと口試す。
「うーん。なんだか、具材の甘味とからしの辛さが激しい戦いを繰り広げてると言いますか、口の中がカオスなことになってると言いますか……」
「おや、弥生さんはからしが苦手なのかな? それじゃあ、次はポン酢だけで食べてごらん。それはそれで美味しいから」
「小さな子供ならともかく、高校生にもなって、からしのよさがわからないなんて。弥生、あなたの舌は幼稚園児並みね」
「まあ、好みは人それぞれだからね。苦手なものを無理につける必要はないわ」
私の感想に苦笑を浮かべる皐先輩と、呆れたような表情で豚まんにからしとポン酢をつける舞先輩。そして、私に水の入ったグラスを手渡してくれる天野先輩。
穏やかに流れる時間が楽しくて、最初は遠慮していた私もつい食べすぎてしまい、心地よい雰囲気と満腹感に、思わず欠伸を一つ漏らした。
そこへ、不意にインターホンの音が響き渡る。
立ち上がり、テレビドアホンの覗いた天野先輩の体が、ピシリと硬直した。
「ああ、さっき、水無月も呼んでおいたから」
「舞。あなたという人は、断りもなく……!」
眉間に皺を寄せる天野先輩を無視して、舞先輩が玄関へ向かうと、勝手知ったる様子で水無月が乱入してきた。彼女の小さな手には、大量のポリエチレン袋が提げられている。
「意外と早かったじゃない」
「みんなでプチパーティーを開くなんて聞かされたら、来ないわけにはいきませんよ。あ、どうぞ、これ。コンビニでジュースとお菓子を買ってきましたぁ」
「あら、私に食べ物を貢ぐなんて、悪くない心がけね」
「というより、パーティーなんてしていないのだけど」
天野先輩の指摘は掻き消され、再び場が盛り上がり始めた。
いつもは整然としているリビングのローテーブルと床も、今は信じられないほどに雑然としている。
食べ散らかされた皿を片づける天野先輩は、「今さらだけど、二人の馴れ初めが聞きたいなぁ」という水無月の質問攻撃に、口を滑らす私を黙らせようとするのに忙しい。
そこへあることないこと口を挟む舞先輩と、突っ込みを入れる皐先輩。
天野先輩がこれほど感情を露わにするところを滅多に見たことがなかった私は嬉しくなった。私の知らない、彼女の新しい一面が垣間見えたようで。
やがて、舞先輩と水無月が、夏は風紀が乱れがちだの、自分たちの仕事が増えるだのと愚痴合戦を始めると、皐先輩のグラスにコーヒーを注いでいた天野先輩が、私を振り返る。
「弥生。こちらのことは気にせず、私の部屋で寝なさい。眠いのでしょう?」
「ん、はい……。でも、両親に黙って外泊はできませんし……」
「お家の方には、私のほうから連絡をしておいてあげる。もう休みなさい」
「いやいや、アヴリル先輩。弥生ちゃんだって、風紀委員の仕事で多忙な日々を送ってるんですから、たまには息抜きをさせてあげないと」
天野先輩の台詞を遮る勢いで言い放った水無月が、私の隣に移動したかと思うと、ふざけて腕にしがみついてきた。
私は自分で思うよりもずっと意識が朦朧としていたらしく、いきなりかけられた体重によろめいて、ソファの上に倒れ込む。それでも、私の頭はぼうっとしていた。
「ちょっと、水無月さん!?」
「はあ、びっくりしたぁ。弥生ちゃんってば、ちょっとくっついただけでひっくり返っちゃうんだもん」
「いい加減になさい!」
天野先輩がものすごい力で水無月を引っぺがしたときには、私の意識はほとんど飛んでいた。
なんだか、じたばたしたような記憶があるようなないような――とにかく、何もかもが定かではない。
強い口調で叱られた気もするけれど、思考能力を夢の世界に飛ばしていた私は呂律の回らない口調で、「ご自由にどうぞ」と答えたとか答えていないとか、よくわからなくなっていた。
***
それから、しばらく。強い喉の渇きを覚えて目を開けると、室内は真っ暗だった。
「水……」
呟いて、起き上がろうとするけれど、体が動かない。軽く身じろぎをすると、何かに絡め取られているような感覚がした。
「その格好でキッチンへ行くつもり?」
耳元で聞こえる天野先輩の声に、ゆっくりと意識が覚醒していく。
起き抜けの頭で理解することができたのは、ここが寝室のベッドの中で、電気は消されていて、背中がなんだか温かくて、背後から体に巻きついているものが二本の腕だということ。
不意に、ぎゅっと腕の力が強まった。……これって、天野先輩の腕?
視線を下ろすと、強く締めつけられている私の胸やお腹は、あろうことか裸だった。
「え? え? あ、あの……むぐっ」
「リビングに聞こえるわよ」
天野先輩の片手が素早く動き、掌で口を塞がれたまま、私の鈍い頭は必死で回転を始める。
私はいつの間に眠ってしまったのだろう。昨夜は舞先輩と皐先輩、そして水無月と一緒に、食事会と称したプチパーティーを開くことになって……え?
パーティーをしていたはずなのに、どうして今、私は裸なの?
不自由な首を恐る恐る左に回して後ろを見れば、最悪の予想は的中し、ぴたりと密着している天野先輩も何も着ていない。道理で背中が温かいわけだ。
口に添えられていた天野先輩の右手が緩んだので、震える小声で聞いてみる。まさかとは思うが。これは、念のために聞くだけなのだが。
「み、皆さんは、帰ったん……ですか……?」
天野先輩は吐息だけで笑って、私の髪に顔を埋めてきた。そして、さっきよりも腕に力を込めて、しっかりと抱きしめてくる。質問に対する答えはない。
答えはないが、思い出した。たった今、彼女はリビングに聞こえるわよと言っていた。……ちょっと待って。
ということは、何? まさか、リビングにお客さんがいるのに、彼女は寝室で私の服を脱がせて、脱がせてから致すようなことをしたというの? 嘘でしょう? 嘘だよね!?
導き出された仮説に私は絶望し、くらりと眩暈を起こした。体を起こそうすれば、さらに天野先輩の腕に力が込められる。
「あの、天野先輩……」
「……」
「天野先輩ったら」
「……」
「もう、アヴリル先輩!」
「何かしら?」
小声で怒声を上げるが、彼女はまったく怯みもせず、さっきまで私の口元に触れていた手で頬を撫でると、喉を辿って、そのまま下へと下ろしていく。
左手も動いて私の胸を包み込み、髪から顔を上げて、耳を食んできた。
「え、ちょっ……、ぃや……っ」
「声を抑えなさい」
「やめ……」
抗う体は拘束されて、拒絶の言葉はすぐに彼女の唇に呑み込まれた。
隙間もないほどにぴったりと塞がれて涙目になりながら、私は音にならない声で叫ぶ。アヴリル先輩の馬鹿! スケベ! 変態! 痴女――っ!!
それから、小一時間。散々翻弄された末にようやく拘束が解かれ、脱力しながら不貞腐れている私を見て、体を離したアヴリル先輩は枕元の照明を点けながら告げた。
「ご自由にどうぞと言ったのは弥生でしょう」
「そ、そんなことは覚えてません。というか、アヴリル先輩、声が大きいです……!」
精一杯低く抑えた私の抗議に、もう一度薄く笑ったアヴリル先輩がベッドからするりと出て、下着だけを身につけた状態で、リビングへ続くドアノブに手をかけた。
止める間もなく、音を立てて開かれた扉。ご丁寧に、照明のスイッチを押す音まで聞こえた。こ、この人は何を考えてるの? やっぱり、アヴリル先輩って痴女だったの?
あまりのことに泣きそうになって、私は頭からシーツにもぐり込み、きつく目を瞑る。すると、アヴリル先輩がくすくすと笑い声を上げた。
「私以外の誰かに無防備な姿を曝した弥生には、この程度の罰は必要でしょう?」
「え……」
「顔を出しても平気よ。みんな、とっくに帰ったから」
彼女は何を言っているのだろう。
ぼんやりと考えている間にも、キッチンまで歩いて冷蔵庫を開閉する音が聞こえ、程なくしてアヴリル先輩が戻ってきた気配がしたかと思うと、おもむろに捲られたシーツ。
視界に飛び込んできた光に反射的に目を閉じた私の頬に、ひやりと冷たいものが当てられた。
そろりと見上げると、ペットボトルのキャップを開けたアヴリル先輩が喉を鳴らしてミネラルウォーターを飲んでいて、不意に私に口づけてきた。
喉を通っていく冷たい水。アヴリル先輩は何度も何度も口移しで水を流し込んできた。もしかして、私は文字通り、彼女にハメられたということだろうか。
水と一緒に、だんだん事態が呑み込めてくる。唖然とする私に、ペットボトルをベッドサイドテーブルに置いたアヴリル先輩が口元を緩めた。
「だ、騙されたんですか? 私。うう、悔しい……っ!」
うつ伏せになって、じたばたしている私にはお構いなしで、アヴリル先輩が再び覆い被さってくる。
「え、ちょっ……」
「今度は声を抑えないで」
「……はい?」
「まだ終わっていないわ」
「ば、馬鹿! 意地悪! アヴリル先輩の痴――」
呆気なく手首を取られ、悪態は再びあっさりと遮られて。
望月弥生、一生の不覚。アヴリル先輩の攻めは、果てしなく続く。
朝は、まだ遠い。
©️一ノ瀬友香2024.
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