第四話 その視線、要注意

 気づけば、いつも視線を感じる。

 それはじっとりと恨めしげなものではなく、刺すように冷たいというわけでもないのだが、とりあえず、いつも気になる程度には見られている。

 振り向くと、視線の主は言うまでもなく天野先輩だった。

 何をするときと限ったことではなく、なんとなく以前から感じていた。一緒にいるときは、いつもこうして淡々と見られていることが多い。

 仕事中だったり、食事中だったり、登下校をしているときも、はたまた廊下を歩いているときも、その他どんなシチュエーションでも、とにかく彼女に見られていると感じることが多いのだ。

 そんな天野先輩は今、髪を結ぶ私を見ている。

 空調が利いている室内とはいえ、七月も半ばに差しかかると、さすがに暑いと感じるようになってきた。

 なので、いつもは下ろしている長い黒髪をサイドテールにしようと思ったのだが、髪を纏め上げた辺りから、ずっと視線を感じていた。

 そういえば、さっきまで生徒会長としての雑務を片づけていた彼女は、ぼんやりと雑誌を眺める私のことも時々見ていたなと思う。まさか、私の女子力の衰えが原因だろうか。

 今日は休日で、私は前日の夜から彼女の家に泊まっていて、昼過ぎまでのんびりと二人で過ごしていたのでスウェットのままだったし、顔だって申し訳程度にしか洗っていなかった。最近では、それが当たり前となっていたからだろうか。

 今しがた、そろそろ昼食を摂ろうという話になり、買い出しに行くことになって、私がようやく身支度を整え始めたというわけだった。

「別にそのままでもいいでしょう」

「外に出る以上、そうはいきませんよ」

 そうして着替え始めたところから、またこうしてずっと見られている。

 こちらを見つめる天野先輩に視線を向けても、その表情からはこれといった感情が読み取れないので、何を考えているのかが今一つわからないのだ。

「どうして見るんですか?」

「いけない?」

 質問に質問で返されて、終わり。

 夏の昼間はうだるような暑さに満ちていて、窓から射し込む日差しを見ているだけで気が滅入る。念のために、日焼け止めを塗っておこう。

 ふと見ると、天野先輩は机の上に広げていた書類を放置して、私の手つきをじっと見ている。

 惚れ惚れとしているというわけでもなく、どちらかと言えば、観察されているとでも言ったほうがいいかもしれない。

 彼女の視線に首を傾げながらフェイスパウダーを手に取ると、天野先輩は目を丸くする。

「まだ塗るの?」

「ええ、まあ。……あの、ですから、どうして見るんですか?」

「何か問題でもあるの?」

「べ、別に、問題って言うほどでもないですけど……」

 あまり見られていると、居心地が悪い。

 特に着替えや洗顔、日焼け止めなどの手順を好きな人にじっくりと見られるのは、なんだかとても恥ずかしく、緊張だってする。

 パフを使ってフェイスパウダーを肌に押し当てれば、目を見開いて凝視される。

 顔の中心から外側、下から上へという順番で、肌全体にまんべんなくフェイスパウダーをつけていくと、心底不思議だというように、天野先輩がしみじみと呟いた。

「なぜそんなに塗るの?」

「な、なぜと言われましても……」

「何も塗らなくても可愛いのに、勿体ないでしょう」

「……え?」

 その瞬間、私の手が止まる。口をあんぐりと開けて、間の抜けた声が出た。

 計算や裏表のない、天然な台詞だからこその破壊力。天野先輩という人は、本当に困った女性だ。しかし、彼女は至って真顔である。

 フェイスパウダーを置いたはずの自分の顔が、スタンドミラーの中で紅を刷いたように赤く染まっていくのがわかる。

 顔に集まった熱のせいで全身が火照り、汗を掻いてしまう。まったく、やりにくいにも程がある。

 そもそも、私が塗ったものは日焼け止めとフェイスパウダーだけだ。化粧と呼べるようなものは何一つしていない。にも関わらず、彼女は私を可愛いと言う。

 天野先輩のような美女に褒められても、正直、嬉しさよりも戸惑いのほうが大きかったりするのだが、どちらにせよ、心臓に悪いことに変わりはない。

 そんな私の心境などつゆ知らず、彼女は相変わらず、私の姿をじっと見つめている。

「髪型だってそうよ。何も手を加えなくたって充分似合っているのに、わざわざ結い上げてどうするの?」

「も、もう……いいから、見ないでください。恥ずかしいです……!」

 私の顔はいよいよ収拾がつかないほどに熱くなって、スタンドミラーの中の自分を直視することすら、ままならなくなってしまった。


 ***


 弥生がどぎまぎと赤面する姿を見て、素直に可愛いと思う。

 なぜ私が彼女を見ているのか。そんなことは決まっている。ただ、見ていたいからだ。

 そう答えると身も蓋もないので、もう少し説明を加えるとするなら、好きだからだ。

 人であれ物であれ、好きなものを見ていたいという気持ちは、老若男女問わず、誰しも自然なことではないだろうか。それなのに、なぜ弥生はあれほど狼狽えるのだろう。

 彼女の印象的な瞳も、白い頬も、薄桃色の唇も、背を流れる黒髪も、華奢な肩も、すべて。

 外見はもちろん、話すとき、歩くとき、食事をするとき、くるくるとよく変わる表情も、豊かに心情を表現する細い手の動きや指先も、一挙手一投足に至るまで、すべてを見ていたい。ただそれだけのことだ。これ以上の理由はない。

 中学時代は同じ学校に通っていながら、私は生徒会長、彼女は風紀委員という立場であり、学年も違っていたため、委員会同士の定例会議を除けば、接する機会がまったくなかった。

 けれど、私はいつも彼女を目で追いかけていた。

 彼女がそのことを知らないのも無理はない。盗み見る私の視線は気づかれないように密かに、彼女がこちらを振り返りそうになれば巧みに逸らしてきたからだ。

 当時、今よりずっと幼かった私は、好きな子を見つめるだけの行為にすら羞恥を感じたものだ。思えば、惜しいことをした。

 以前にも言ったと思うが、私はそれをつくづく後悔している。だからこそ、その後悔を二度と味わいたくはなかった。


 ***


「今日は鳥肉と人参、レタスが安いみたいですね」

「そうね。ある程度の調味料は家に揃っているし、お昼は中華ベースの鳥肉丼とサラダとお吸い物にしましょうか」

 カートを押しながら時々立ち止まり、食材を吟味する天野先輩の瞳は真剣そのものである。

 天野先輩の家から徒歩で一〇分ほどの、大きなショッピングモール。そこの食品売り場に置かれている食材は鮮度がよく、品揃えも豊富で、彼女のお気に入りの店だった。

 聞けば、両親が海外赴任をしていることもあり、普段はこのスーパーで買い物をしているのだという。

 それにしても、いつも思うが、美女である天野先輩は何をしていても様になる。

 彼女が今、手にしているものは高価な小物や洋服といった類ではない。レタスだ。葉の重なり具合を見たり、重みを確かめるように動かす手首が、なんだかとても優雅である。

 繰り返すが、彼女が手にしているものは、あくまでも野菜のレタスだ。思わず見惚れていると、背後からひそめた声が聞こえてくる。

「見て。あの人、すごく綺麗」

「隣にいるのは、妹さん……じゃないよね。全然似てないし」

「どっちにしても、あんな美人の隣に立てるなんてすごいなぁ。私なら無理」

 まただ。

 いつものことなので驚きはしないけれど、天野先輩はレタスを選んでいるときでさえ、こうなのだ。

 天野先輩と一緒にいるとこういうことが頻繁にあり、周囲から浴びせられる視線が私には少し痛い。

 スーパーとはいえ、こんな人と行動を共にするのに身だしなみを疎かにするなど、無理に決まっている。

 だが、彼女はその視線に気づいているのかいないのか、囁き声だって耳に入っているのかいないのか、いつも涼しい顔をしている。

 ちらりと見れば、こちらを盗み見しているのは菓子か何かを選ぶ振りをしている彼女たちだけではない。

 向こうの男性客も、アルバイトらしき若い女性店員も、みんながさり気なく彼女に視線を送っている。

 もう一度確認するけれど、ここはただのスーパーであって、お洒落なブランドショップなどではない。

 天野先輩の隣にいて、すれ違う人々からじっと見定められる私の身の置き所のなさを、誰かわかってくれるだろうか。

 なんとなく居た堪れなくて、私は天野先輩にぼそりと声をかけた。

「私、飲み物を見てきます」

「ええ。はぐれるから、他のところには行かないようにね」

「わかりました。それじゃあ、行ってきます……」

 そう言って、その場を離れる。

 ドリンク置き場へ向かう途中、一度だけ背後を振り返ると、そこにはやっぱり優雅にレタスを選んでいる天野先輩と、それを遠巻きに眺めている人々の姿があった。

 こんな光景を見てしまうと、自分がひどく場違いな人間に思えて仕方がない。

 私は内心でため息をつきながら、陳列棚からペットボトル飲料を取る。次いで、天野先輩の元へ戻ろうとした、そのときだった。

「きゃっ!」

 陰鬱な気分に浸っていた私は、踵を返した瞬間、背後を通りがかった人物にぶつかってしまった。

「す、すみません!」

 二、三歩よろけながら、私は慌てて自分の不注意を謝罪する。

 それなりの勢いで衝突したにも関わらず、私とは違い、相手は無事そこに立っていた。

 少しだけ安堵しつつ、顔を上げると、そこには、私と同世代と思われる男性客の姿があった。

 眼鏡の奥にある冷然とした瞳が印象的な彼の表情を確認すると、どうやら怒ってはいないようで、ひとまず胸を撫で下ろす。

 すると、彼は突然足元にしゃがみ込み、床に落ちていた何かを拾い上げると、それを私に手渡した。

「はい、落としたよ。望月弥生さん」

「え、あ、すみません。ありがとうございます……!」

 差し出されたものは、私の学生証だった。恐らく、ぶつかった拍子に落としてしまったのだろう。

 一瞬、どうして私の名前を知っているのかと疑問に思ったが、学生証の中身には名前やクラスが記載されていることを思い出して、納得する。

 私が頭を下げながらそれを受け取ると、男性客は気にしないで、と片手を振った。

「元はと言えば、俺の不注意が原因だし。それにしても、その学生証。あの有名な聖リュンヌの生徒だったんだね、君」

「は、はい」

「あ、こっちだけ君のことを知ってるっていうのも不公平だよね。俺は――」

「弥生」

 刹那、凛と澄んだ声がその場に響き渡る。

 振り返れば、いつの間にか天野先輩がすぐ後ろに立っているではないか。彼女は私の隣に並ぶと、ちらりと男性客を一瞥した。

「こちらは知り合い?」

「い、いえ。さっき、ぶつかってしまって」

「あ、ええと、その……どうも」

 男性客は突然現れた美女に驚いたのか、どことなく罰の悪そうな顔をして、そそくさとその場を立ち去っていく。

 まだこの辺りの商品を見ていないようだが、いいのだろうか。そんなことを考えていると、天野先輩が大きなため息をひとつ零した。

「まったく。あなたは本当に目が離せない子ね」

「え?」

 言葉の意味が理解できず、首を傾げると、天野先輩は再び呆れたようなため息を吐き出し、それきり黙り込んでしまった。何か、また怒らせてしまったのだろうか。

 付き合い始めて、二ヶ月と少し。

 以前に比べれば少しはわかるようになってきたけれど、こうして口を閉ざされてしまうと、天野先輩は今一つ感情が読み取りづらいので、私は本当に困ってしまう。

「あの、天野先輩……」

「弥生。そろそろ、天野先輩と呼ぶのはやめにしない?」

「え? それじゃあ、なんて呼べば?」

「そのくらい自分で考えなさい」

 ぴしゃりと言われてしまっては、それ以上何も言えなかった。

 私はうーんと小さく唸り声を上げながら考える。そんな私を、天野先輩はじっと見つめている。

「天野会長、とかですか?」

「……」

 へにゃりと笑い混じりに告げると、天野先輩の顔が一瞬にして不快の色に彩られた。

 これは明らかに冗談が通じていない。そして、天野先輩の真顔には凄絶な色気がある。今まで気づかなかったが、私はどうもこの表情が好きみたいだ。

「考えてもわからないのなら、体に教えてあげるけれど」

「ま、待ってください! ア、アヴリル先輩! アヴリル先輩!」

 場も弁えず、私の顎をくいっと持ち上げてきた天野先輩の瞳が。……え?

 信じられないことに、その目元がじわじわと朱に染まり始めた。私は驚いて彼女を見つめる。こんなこと、初めてだ。

 いつだって敵わないと思っている天野先輩の眼差しが急激に弱々しくなって。本当に、初めてではないかと思うくらいに、彼女のほうから視線が逸らされた。

 一瞬、呆気に取られたような気持ちになり、そして困ったことに、次の瞬間には楽しくなってきてしまった。私は繰り返してみる。

「アヴリル先輩?」

「……」

「アヴリル先輩ったら。アヴリルせんぱーい?」

 彼女が目を逸らしていたのはほんの少しの間だけで、再び私に戻った視線は、見事に強い輝きを取り戻していた。しまった、調子に乗りすぎたかもしれない。

 そう思うと同時に、彼女の口の端がわずかに上がった。まずい。

「そんなに口を塞いでほしいの?」

「アヴ――」

 名前を呼び終えるよりも早く、私はまた。

 飲み物の陳列棚の陰、ほんの小さな空間で、彼女に捉えられてしまった。すぐそこの距離にして、一メートルほどの場所を他の客が歩いている。こ、こんなところで?

 そんな思いも、何もかもがあっという間に呑み込まれてしまう。彼女の手にかかると、私なんて本当に他愛もない。

 ややあって唇を離すと、私の耳元に顔を寄せてきた彼女が、ぞくりとするような吐息と共に囁きかける。

「茶化さないの」

 そして、深い灰茶色の瞳に射竦められる。私は完全にこの双眸に捕まっていた。彼女から逃れる術など持ち得ない。

 沸騰してしまった頭の中で、叶うならこの幸福な檻に永遠に繋がれていたいと、そう思った。



©️一ノ瀬友香2024.

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