第三話 ずるい女

 月曜日の電話で、弥生の機嫌が悪いことにはなんとなく気づいていた。

 しかし現在、期末考査の一週間前である。

 私としては、テストというものは日頃の勉強の成果を試す機会だと捉えているのだが、大半の生徒はそう思っていないらしい。

 普段の授業で教師に指されたときすら緊張するのに、それが何倍にもなって返ってくる試験期間中は、生徒にとっては苦痛以外の何者でもないようだ。

 そんな事情もあって、弥生のことが気になっていたのだが、もしもテスト勉強に集中している最中だったら邪魔をしてはいけないと思い、電話をすることを控えていた。

 ますますおかしいと感じたのは金曜日の朝。つまり、今朝だ。

 週末を二人で過ごすことは今や暗黙の了解となっており、木曜日の夜には互いの予定を確認するのが常だった。

 どんなに忙しい日々を過ごしていても、私にとって弥生の存在は癒しであるし、彼女と過ごすことは学園生活とは比較できない大切な時間でもある。

 しかし、昨夜遅くまで生徒会長としての仕事に追われていた私は、弥生にメールをしそびれてしまった。彼女からも連絡はなかった。

 そんなことを考えている間にも、一緒に学内の見回りをする予定になっている副会長が私を呼ぶ。

 各自の勉強時間を確保するため、期末試験が終わるまでは、生徒会と風紀委員会が交代制で生徒たちを取り締まることが慣例となっているからだ。

 私は副会長の呼び声に返事をすると、さっさと仕事を終わらせるべく、弥生のことは気にしない振りをして、足早に学内を見て回ることにした。

 そのときの弥生が、どんな気持ちでいるのかも知らずに。


 ***


「弥生ちゃん」

 机に向かい、英語の参考書と睨み合っていた私は、水無月に呼ばれていることにも気づかなかった。それほどまでに、私の苛々はピークに達しようとしていたのだ。

 来週の期末考査では、一日目から苦手な英語が待ち構えているというのに、今のままではまったく集中できない。

 今日は天野先輩と会う約束をしているわけではないのだから、自分のペースでテスト勉強に励むことができるのに。

 そこまで考えたところで、いや、違う、そうではないと思い直す。天野先輩に会おうと会うまいと、テスト勉強をしなくてはいけないことに変わりはない。

「ねえ、弥生ちゃん」

 カリカリした頭で余計なことを考えているものだから、ついミスをやらかしてしまう。

 シャープペンシルを持つ手に力を入れすぎたのか、ポキンという音と共に芯が折れた。

 しかもその際、不要な線をノートに引いてしまったことに気づいて消そうとしたら、消しゴムを床に落としてしまった。次々と連鎖する失態に嫌気が差し、苛々はさらに募る。

「弥生ちゃんってば。ねえったら、ねえ!」

「もう、さっきから何!?」

「な、何はこっちの台詞だよ。そんな怖い顔しちゃって……」

 頭上から降ってくる大きな声に顔を上げると、声の主である水無月がほんの少したじろいだ。

 普段、滅多なことでは動じない彼女をして怖いと言わしめる私は、一体どんな形相をしていたのだろう。

「……ごめん。何か用事だった?」

「う、うん。舞先輩からメールがあって、今からみんなでファミレスで勉強会をしないかって……」

 いつになく尖った声で尋ねる私とは対照的に、こちらもいつになくおずおずとした口調で答える水無月。

 私の怒りが伝わったらしい彼女は、それでもなんとか要件を伝えようと、必死になっているようだった。

 くりくりとしたどんぐり眼も不安げに揺れていて、その縮こまった姿を見ていると、なんだか申し訳ないことをしてしまった気分になる。

 しかし、一度火のついた感情を抑えることは難しくて、どうしてもぶっきらぼうな態度になってしまう。

「みんなって、私たち風紀委員のこと?」

「うん。風紀委員たるもの、赤点を取るわけにはいかないとか言ってたけど」

「へえ、舞先輩らしくない殊勝な台詞だね」

「いや、それは建前。私と弥生ちゃんが赤点を取ったら、自分たちに仕事の皺寄せが来るからって」

「ああ、そう……」

 思わず脱力しそうになるのを堪えながら、私はため息混じりに呟いた。

 確かに、ただでさえ人手不足な風紀委員から補習者が出たりしたら、他の役員に迷惑をかけてしまうことになるだろう。

 とはいえ、もう少し言い方があるのではないだろうか。舞先輩はいつもひとこと多い。

 そもそも、私は水無月のおまけとして風紀委員になっただけなのに、舞先輩の巧みな口車に乗せられて、いつの間にか水無月と共に書記を任されてしまった。

 雑用と書類作成が主な仕事なので、放課後は毎日、風紀委員会室と資料室を行き来していた。

 きっかけは、秋に行われる文化祭に関する打ち合わせをした、あの四月某日のことである。

 聖リュンヌの生徒会長として、文化祭実行委員長と共に会議に参加している天野先輩は、私の恋人だった。

 そうなるまでの経緯は舞先輩の大いに知るところであり、なし崩し的に、会議内容を記録する書記に任命されたのだ。

 仕事も私情も大いに入り乱れている聖リュンヌの風紀委員会は気楽だが、今のような場合は非常に困る。

 なぜなら、たった今、私がここまで苛々しているのは、他でもない天野先輩が原因だからだ。

「まあ、私もちょうど一人での勉強に行き詰まってたところだし、いいよ。参加する」

「よかったぁ。あ、でも、弥生ちゃん、金曜日はアヴリル先輩と約束があるんだよね? なんなら、アヴリル先輩も誘ってみる?」

「……っ」

 水無月の無邪気な台詞に、自分の顔が引きつるのがわかる。

 その約束が、今日はないの。だって、今週はメールの一通すらないんだよ。私もしてないけど。

 テスト勉強に集中しているのは、赤点を取ったら、自分も周囲も困るから。ただそれだけ。決して、苛々を誤魔化すためではない。あの人のことなんて関係ない。

 壁掛け時計をちらりと見やれば、時刻はもうすぐ十七時三〇分。十八時まで、あと少し。

 私はきつく目を瞑ると、胸にかかる靄を振り払うように、心の中で叫び声を上げる。天野先輩なんて、天野先輩なんて。

「天野先輩なんて、もう知らないんだから!」

 水無月を始め、そのとき教室に残っていたクラスメイトがびくりと肩を揺らした。

 そして、私は絶叫しながら、手にしていたシャープペンシルを机の上に叩きつけてしまう。

 自分でも思いのほか大きな声が出たことに驚くと同時に、お気に入りのシャープペンシルを乱暴に扱ってしまったことに動揺しつつ、時計をひと睨みしてから帰り支度を始める。

 そのあとは、水無月と連れ立って校舎を出て、先にファミレスに来ていた舞先輩と皐先輩と合流し、勉強会を開始。

 本来なら別の人と一緒にいるはずの十八時に差しかかる頃には、携帯電話を弄ったり、飲み物を淹れに行ったり、メニューを眺めたりと、みんなすっかりだらけていた。

 私だけは黙々と参考書と睨み合っていると、不意にスカートのポケットに入れていた携帯電話が震え出した。

 マナーモードに設定しておいたそれを取り出すと、ディスプレイには、“天野先輩”の文字が浮かんでいる。刹那、私の動きが止まった。

 だって、聞きたくなかったから。一週間、なんの連絡もくれなかった理由を。

 その理由は、月曜日に見かけた彼女の隣に並ぶ人物と関係しているように思えたから。

 顔も合わせず、声も聞かない間に、その想像が疑いようのない事実に思えてきたから。

 だから私は、一度、二度と震動を繰り返す携帯電話を見据えながら悩み抜いた末、その電話を取らないことにした。

 そのときの天野先輩が、どんな気持ちでいるのかも知らずに。


 ***


「……」

 弥生が電話に出ない。

 もしかして、テスト勉強に集中しすぎて気づいていないのだろうか。確か、期末考査の一日目は英語だったはず。

 私は幼少期にカナダで暮らしていたこともあり、英語とフランス語には自信があるのだが、英語が苦手な弥生にとっては地獄だろう。

 気にはなるが、勉強に励んでいるのならしつこく電話を鳴らすのは気の毒だと思い直し、今日のところは諦めた。

 私としては、週末に弥生と過ごす時間を楽しみにしていたのだが、互いに学生である以上、試験期間中はこのようなことがあっても仕方ない。

 ため息を一つついて立ち上がれば、ペアを組んで学内の見回りをしていた副会長が声をかけてきた。

「天野くん、今日はずいぶんとゆっくりですね。よければ、このあと一緒に夕食でもどうでしょう?」

「お誘いありがとう。だけど、ごめんなさい。少し疲れたから、今日は早く帰りたいの」

「そう言わずに。来週の見回りに関する相談もあるんです。時間は取らせませんから」

「……仕方がないわね」

 彼は入学当初からの仕事仲間の一人で、某財閥の子息でもある。

 互いに恋人がいる身とはいえ、異性であるからには二人で食事を摂るなどあまり気が進まないが、仕事の話があると言われれば、無下に断るわけにもいかない。

 弥生が捕まらないこともあり、私は不承不承といったオーラを前面に出しながら承諾した。


 ***


「いただきます!」

 十八時三〇分。ディナータイムに突入して間もなく、私たち風紀委員はファミレスで夕飯を摂ることになった。

 まだ時間が早いこともあり、他の客は少ないが、それでもちらほらと食事をしている姿が見受けられる。

 そんな中、私は数あるメニューの中からハンバーグセットを注文し、運ばれてきたそれにカトラリーを差し込んだ。もはや、やけ食いである。

 聖リュンヌに入学してからというもの、家でも学園でも上品さを心がけてきたつもりだが、今日に限っては気にもならなかった。

 フォークでひき肉をぐさりと刺し、ナイフで乱暴に切り分けたそれを口へと運ぶ。咀嚼し、嚥下するたびに感じる肉汁とソースの旨味を堪能する余裕もない。

 舞先輩と皐先輩、そして水無月の視線が痛いほどに向けられている気がしたけれど、今は無視だ、無視。

「まるで、久しぶりに外の食事にありついた受刑者みたいな食べっぷりね。一体、どんな猟奇的犯罪を犯したのかしら。想像するのも恐ろしいわ」

「いや、舞先輩のその発想のほうが何倍も恐ろしいと思いますけど」

 呆れたような口調で告げる舞先輩に、水無月の突っ込みが被さった。

「弥生さん、もしかしてお腹が空いてたのかい? よければ、僕の分を半分あげようか?」

「やめておきなさい、皐。一度でも餌付けすると癖になって、あとひと口、もうひと口と、際限なく要求してくるようになるわよ」

「そんな。公園にいる鳩か何かじゃないんだから」

 今度は、皐先輩と舞先輩の夫婦漫才のようなやり取りが交わされる。

 この二人は双子の姉弟らしいが、なぜここまで性格が違うのだろう。二卵性双生児とはいえ、生まれる前から一緒にいるのだから、多少なりとも性格が似通ってもいいと思うのだが。

 まあ、そんなことはどうでもいい。私は早くメニューを平らげて、家に帰って、お風呂に入って、眠りたいのだ。

 そんなふうに忙しくカトラリーを動かす私を、隣席に座った水無月が苦笑混じりに見つめている。

「弥生ちゃん、ここのところずっと不機嫌だよねぇ」

 そうだよ。今も絶賛、機嫌は降下中なんだよ。

「悩みがあるなら、アヴリル先輩に相談してみたら?」

 そして、踏んだ。踏んでくれた。地雷を。

 私は手にしていたカトラリーを取り落とした。刹那、金属同士がぶつかり合う音がファミレスに響き渡る。

 他の席に着いている客が何事かとこちらを見るが、今の私は気にもならなかった。ただただ、隣にいる水無月を呆然と凝視してしまう。

 水無月。あなた、さっきの教室での私の様子を見てたでしょう? それなのに、どうしてこのタイミングで天野先輩の名前を出しちゃうの? まさか天然? 天然で言ってるの? 仕事の手際や要領はすごくいいのに。

「ええと、天野と何かあったのかい?」

 新しいカトラリーに交換してもらった私に、皐先輩がおずおずとした口調で、いきなり痛いところを突いてくる。これは、まずい。非常にまずい流れだ。

 風紀委員会の仲間たちは、私と天野先輩が恋人同士であることを知っている。

 だからこそこんな質問をしてきたのだろうし、さっきカトラリーを落としてしまったことからも、私の動揺は丸わかりだったはずだ。

 それなのに、ここで下手に取り繕おうとすれば、却って怪しさが増してしまうだけなのは明白だった。ここは素直に答えるべきか、誤魔化すべきか。

「べ、別に? 何もないですよ。あ、すみません。私、ちょっとお手洗いに……」

「図星を指されたからって、逃げなくてもいいじゃない。どうせ、私たちからは逃げられないんだから」

「あはは!」

 背中に投げられた舞先輩の脅迫紛いの台詞は恐ろしいけれど、今は聞こえない振りでスルーだ。水無月の笑い声に至っては、意味がわからない。

 ファミレスは、私たちが食事を始めたときに比べると客が増えていて、混雑具合も増している。中には、すでに食後のお茶で雑談に花を咲かせている人もいるほどだ。

 その姿を横目で見ながら、私は化粧室に向かって踵を進める。

 そして、通路の途中にある出入り口の前を通ろうとした瞬間、ピンポーンというドアベルの音と共に、扉がゆっくりと開け放たれた。

「……」

「……」

 現れたのは、よく見知った顔だった。なぜなら、それは天野先輩だったから。

 わずかに驚いたような表情で、天野先輩が私を凝視する。私も大きく開いた瞳で見つめ返す。

「あま――」

「どうしました? 天野くん。もしかして、混んでますか?」

 名前を呼びかけたとき、彼女の背後から男子生徒が顔を覗かせた。この男子生徒は、確か。

 私が右の眉を吊り上げている間にも、天野先輩はいいえ、などと言いながら背後を一度振り返り、再び私に顔を戻した。

「弥生」

「……」

 そのときの感覚は、もう覚えていない。彼女がどんな顔をしたのかも。

 気づけば、私は彼女と男子生徒の横をすり抜けて、開かれた扉の外へと駆け出していたのだ。

「弥生……!?」

 お手洗いという名目でみんなを置いてきてしまったことも、メニューを残してしまっていることも、通学鞄を持っていないことも、すべて頭の中から飛んでいて、私はとにかく走った。

 走ったけれど、日頃の運動不足に加えて、体力がない私の足はすぐに失速し、ついにはのろのろ歩きになる。

 背後から、ずっとコツコツと靴音が追いかけてきていることはとっくにわかっていたけれど、あえて気づかない振りをした。

「どこへ行くつもり?」

「ついて来ないでください」

「生憎だけど、私もこちらに用があるの」

 かなり歩いてからやっとかけられた声は、反省でも謝罪でもなく淡々としていて、私の胸はまたキリキリと締めつけられる。

 繁華街を抜けて、街外れに入り、意味もなく道路を歩き回った。

 ファミレスの混雑とは正反対に静かなこの辺りは、いつか彼女に連れて行かれた、あの公園の近くでもある。

 このタイミングで、彼女に告白をされた思い出の場所に出向いたところで虚しいだけなので、行かないけれど。

 彼女の規則正しい足音は、腹立たしいまでの冷静だ。

 この人は何を考えているのだろう。臆病な私は核心に触れることができない。言い訳や謝罪でもされたら、そのほうがよほど立ち直れないかもしれないのだ。

 やがて、彼女の歩調が私に並んだ。やっぱり、それはそれでむっとする。

「だったら、別の道を歩いてください!」

「子供っぽいことを言わないの」

「どうせ私は子供です!」

「では、私が大人にしてあげましょうか」

 言うが早いか、突然肩を引き寄せられ、路地裏に連れ込まれた。

 その腕は迷いもなく私をきつく抱きしめて、まるでそうすることが当たり前であるように、彼女の整った顔が迫ってくる。

 その長い睫毛に縁取られた灰茶色の瞳には、一片の曇りもなかったけれど――。

「やっ、……嫌、です!」

「弥生……っ」

 感情任せに背けた顔を右手で強引に戻されて、有無を言わせない唇が、私のそれを塞いだ。

 態度とは裏腹な愛しむように優しく蠢く舌は、私の凝り固まった心を他愛もなく解して、融かしてしまう。

 足の力が抜けて、一人ではまともに立っていられなくなった私の体は彼女の左腕に支えられ、いつ終わるとも知れない長い長いキスは、彼女の想いを雄弁に伝えてくる。

 いつもこうだ。彼女はその唇だけで、いつだって私を骨抜きにしてしまうのだ。ずるい。天野先輩は、本当にずるい人だ。

 さっきの男子生徒は、月曜日に見かけた彼女の隣に並ぶ人物で間違いなかった。

 親しげな二人の姿に私が思い悩んだことや、取り留めもなくぶつける疑問に答える彼女は、それでも聞きたかったことを的確に教えてくれて、独りよがりな嫉妬心を氷解させていく。

 本当に、私はこの人にはすっかりお手上げなのだ。

「私が平静だったとでも思っているの? だとしたら、とんでもない勘違いね」

「す、すみません」

「聞きたいことがあるなら、その時点で私に聞きなさい。大体、電話に出ないなんて、子供っぽいにも程があるわ」

「……」

「今日はこのまま私の家に来なさい。あなたをもっと大人にしてあげなくてはね。覚悟しておくように」

 ついに折れた私は項垂れて、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

 その瞳にはゆらゆらと妖艶な炎が揺れていて、それを受け止めた私の全身からは、また力が抜けていく。天野先輩はもう、存在そのものがずるいと思った。

 あとで聞いたところによると、私と天野先輩が消えたあと、残された副会長と風紀委員の面々は意気投合したらしく、私たちを肴に楽しいディナータイムを続けたのだとか。

 そして、私は愛情という名のお仕置きを彼女から施されて、気を失いそうな長い夜を過ごしたのだった。



©️一ノ瀬友香2024.

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